説教集

 

先週( 9/19)礼拝説教片々

    「愛に生きる自由」

       ガラテヤの信徒への手紙5章2~15節

 

  「イエス・キリストに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」とパウロは言います。愛するという私たちの行動となって現れてくる信仰こそが私たちを常に新しく生かす真理です。

 キリストの十字架によって、死に至るまでの私たちの一切の罪が贖われている今、私たちはキリストの救いを信じる信仰によって、一切の罪の軛から解放されています。この信仰を通して、全く新しく、全く自由に、神と共に生きる道が、私たちの目の前に現れています。そして、この道には復活の主が立っておられ、「わたしについて来なさい」と私たちを招いて下さっています。ただ、このお方の声に聞き従って、新しい自分になっていくこの道を歩んで行く以外に、私たちが為すべきことは何もないはずです。

 十字架の福音こそが、ユダヤ人と異邦人の差別を越えて、更には、この地上のあらゆる偏見や差別を越えて、信じる人すべてに救いを得させ、キリストと共にある自由と愛が織り成していく神の国の中へ、私たちを導き入れてくれる神の愛の力です。罪の支配の下からキリストの支配の下へ救い出されている私たちは、キリストが私たちを愛して下さっているように互いに愛し合うことによって、互いに仕え合うための自由が与えられています。私たちはこの世の誰にも従属せず、この世の誰の束縛も受けず、自由に愛し合うキリストの僕です。

 

  

 

先週(9 /12)礼拝説教片々

    「命の糧」

       出エジプト記 16章12~21節

 

   モーセは主の民に言いました。「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである」と。この不思議なマナの贈り物を主から与えられることを通して、主の民は主から何を教えられていくのでしょうか。

 日ごとの肉はうずらによって与えられています。それでは、主が主の民を奴隷の国エジプトの死の闇の中から救い出し、荒れ野へと導き、その荒れ野で主の民に与えられたこの不思議な日ごとの糧、マナとは一体何なのでしょうか。不信仰な御自分の民を見捨てることをなさらず、その不信仰を信仰へと導く、忍耐強く、憐みに富む、恵みの主の命の御言葉ではないでしょうか。

 主によって荒れ野へと導かれた主の民は「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった」と、不平を言いながら、今、主の御手の中で生かされているという恵みの中にいます。主は御自分の御手の中で不平を言いながら生きている主の民に、日ごとのマナを与えながら、荒れ野という逆境の中を導いています。マナは私たちが食べることによって私たちの生きる力となって働き、私たちを成長させ導く、主の命の御言葉です。順境であっても、逆境であっても、今日というこの一日を十分に生きることができる恵みが与えられていることを喜び、主に感謝しつつ、この地上を生きる主の民が歩んで行く一筋の命の道がここに示されています。

 

  

 

先週(9/5)礼拝説教片々

    「感謝と謙遜」

       マタイによる福音書7章1~6節

 

   おが屑と丸太を比べるならば、圧倒的に丸太の方が巨大です。丸太の巨大さと比べるならば、おが屑は些細なものです。無きに等しいものと言えます。それなのに、あなたの目は人の目にあるおが屑は見ることができるのに、自分の目にある丸太は見えていない。あなたの目は一体どうなってしまっているのか、とイエスから私たちは問われているように思います。このおが屑と丸太の比較は何を意味しているのでしょうか。それは神の前における私たち人間の罪は無限に大きいということです。そして、私たちは神にその無限の負債を赦してもらっている僕なのに、兄弟姉妹に対してあれこれ小さなことを裁いている、とイエスは言っているということです。無限に大きい自分の罪を赦された人は神の裁きがわかり、しかもその神の裁きが主イエス・キリストの十字架の裁きであることがわかるというのが「自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」とイエスが言う言葉の意味です。キリストの赦しを得た人はキリストの命に生かされ、自分の目にある丸太が取り除かれる人となります。そして、その人は自分の正しさがキリストの救いの恵みによるということを知っている人となりますから、今ここで、兄弟姉妹を自分が絶対的に裁くというような裁き方はしない人となります。自分自身に対しても、また、自分以外の人に対しても、キリストを通してでなければ、人を知らない人、となります。

 

 

 

先週 (8/29)礼拝説教片々

  「神の栄光にあずかる希望」

       ローマの信徒への手紙5章1~5節

 

 パウロが律法を守ることによって得ようとして得られなかったこの平和が可能となったのはキリストの救いの出来事、キリストのお陰です。更に、この信仰によって私たちはただ単に神との間に平和を与えられたというだけの受け身の関係の中に留まる者ではありません。信仰によって神の平和の中に自ら望んで立つこと、その恵みの中で新しく生きることへ日々、養われ成長させられ、日々、新しい一日を生きることへ導き入れられているということです。愛されている者であるばかりでなく、愛する者になっていくということです。

 失われていた神との交わりの回復は私たちに常に新しい希望に向かって生きる喜びを与えてくれます。この新しい希望は私たちの死によっても奪われることはありません。何故なら、この新しい希望は死に勝利している主イエス・キリストの復活の命の希望だからです。

 

 「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」とパウロは言います。死に勝利している輝かしい復活の命につながって新しい命に生きることが可能となったこの恵みの真理を私は大いに喜んでいます、とパウロは証言しています。この誇り、この大いなる喜びは死に勝利している復活の命に私は生かされているという誇りですから、困難な状況の只中で、それでもなお諦めることなく自分にできることを精一杯前向きに取り組んで生きていく生き方の拠り所となっています。自分が生きる命の源泉となっています。

 

 

先週(8/22)礼拝説教片々

    「己の哀しさ」

      ヨハネによる福音書18章25~27節

 

 ペトロは自分自身がイエスの弟子であるどころか、イエスの裏切り者であるということを知ります。知るだけではありません。自分自身の罪にまみれた惨めな現実に打ちのめされます。この罪人ペトロへの救いは何処からやって来るのでしょうか。ペトロへの救いはペトロが裏切ったイエスからやって来ます。ペトロがイエスを裏切っても、イエスはペトロを見放しません。神の愛は人間の愛を上回っています。そして、その人間の小さく貧しい、欠点だらけの愛を愛して生かしています。

 ペトロを見ていたのはペトロを窮地に追い込んだあの目撃者だけではありませんでした。もう一人いました。ペトロに温かい愛の眼差しを向けていた人がいました。自分を裏切ったペトロを赦し、その罪を贖って自分の命を与え、ペトロに新しい朝をもたらす、イエス・キリスト、その人です。あの目撃者の眼差しがどんなに冷酷であったとしても、主なる神の愛の眼差しは憐みに富み、私たち罪人に新しく生きる道を備えて下さっています。これが私たちの希望です。この後、ペトロが思いもかけずイエスと出会うのは、イエスが約束されたとおり、復活の朝です。

 私たちは自分の力が尽きた時、死を思い絶望に陥りますが、しかし、その時の訪れこそが創造主なる神の愛に信頼して、そんな自分の全てを委ねる時となります。神の愛とキリストの赦しを上回る私たち人間の罪はありません。

 

 

先週(8/15)礼拝説教片々

「神の約束の子」

 ガラテヤの信徒への手紙4章21~5章1節

 

 ユダヤ教の信仰の影響を受けつつ、しかし、その支配から自ら自由になっていく初代教会の生命力は十字架の死と復活の命であるキリストの福音のみに立つという信仰でした。人を律法の呪縛から贖い出し、信じる者に聖霊を与えて、生ける神との生き生きとした命の交わりの中を歩んで行く新しい生活へ導き入れることができるのは十字架と復活のキリスト、この福音のみです。イエス・キリストへの信仰によってのみ、人は義と認められ、神の子として受け入れられます。

 ここでパウロはアブラハムには二人の子があったということを取り上げます。キリストの福音に生きるキリスト者こそアブラハムの子孫であるということは既に言われていました。ここではアブラハムの二人の子に焦点を当てることを通して、キリスト者の自由を更に徹底させていきます。民族主義に基づく差別を退けていきます。

アブラハムには肉によって生まれた奴隷の子と約束によって生まれた自由の子がいます。ユダヤ人の血統であることに誇りを持ち、律法遵守を主張するアブラハムの子孫は律法の支配下にあり、律法の奴隷となっています。これに対して、神の約束のみに、キリストの福音のみに信頼して生きるアブラハムの子孫は自由です。パウロは天のエルサレムの子どもたちに与えられているキリストの福音のみに信頼して生きる天よりの自由、即ち、神の恵みの賜物である聖霊を、喜びと感謝をもって伝えています。

 

 

先週(8/8)礼拝説教片々

「空の鳥、野の花をよく見なさい」   

  マタイによる福音書 6章25~34節

              岡田 仁 牧師

 

鳥や花は被造物としての限界領域において一線を越えることはしません。むしろ、満ち足りた姿で大空を飛び、野に咲き乱れています。自らに与えられた力をやさしく発揮している、その謙虚な姿をよく見なさい、と主イエスは語ります。「明日のことは明日自らが思い悩む」のであって、「その日の苦労は、その日だけで十分である」。にもかかわらず、人間は明日のことを神に委ねようとはせず、自分でその責任をどこまでも負おうとするのです。

中世の修道院では、メメントモリ「汝自身の死を知れ」という言葉が日常の挨拶として交わされていました。死は、全てを支配される神の領域です。自分自身の死を覚えるとは、命も死もすべてを支配されている神に信頼し、今ここに与えられている命を各自が精一杯生きなさいということです。

 

先週(8/1)礼拝説教片々

「宝は天に」

   マタイによる福音書6章19~24節

 

もし、自分が生きる自分のこの命を、自分が手に入れた自分の富として、決して失うまいと、この地上で生きることのみに執着して、一心になって生きるなら、自分の富となった自分のこの命は、盗人が忍び込んで盗み出していくことができるものとなり、自分から失われていってしまう…と、イエスは警告しているのだと思います。だから、イエスは言います。「富は天に積みなさい。」

 この地上での生と死の彼方、天に、今、自分が生きるこの命の源であり命の主である神の栄光を見て、それと同時に、その神の栄光が地上に生きる自分のこの命を見い出し、照らし出している希望の光、主の愛の眼差しを見ることができる私たちの心の目とはどんな目なのでしょうか。イエスは、目を「体のともし火」と言います。「目が澄んでいれば、あなたの全身は明るい」と言います。今、あなたの目があなたの心と共にあって正しい状態にあるなら、心の窓が開かれているなら、あなたの心の目は光を見ることができる、光を通すことができる、そして、その光はあなたの心の目を通ってあなたの体の中に入り、あなたの内側からあなたの全身を照らし出し、あなたが生きる命を天の光で輝かせるであろう、と言っています。もし、私たちの体のともし火である心の目が、この希望の光を見ることができるなら、私たちは過ぎ去りゆく地上の富への執着や思い悩みから解放されて、この地上での生も死もある私たちのありのままの命を、自由に生きることができるでしょう。

 

先週(7/25)礼拝説教片々

「闇の中に輝く光」

  ヨハネによる福音書18章12~24節

 

時は今、夜です。深まっていく夜です。この夜の闇の中で、この世の権力者の手にイエスが引き渡されていきます。それはあたかも闇の中に隠れていたものが灯火の光に照らし出されてその姿を現すかのように、神の愛する独り子であるイエス・キリストが近づいて行くことによってこの世の権力者である大祭司アンナスの内面が明らかになってきます。自らの保身のために権力を用いて神の前に不正を行っているアンナスは、その不正をイエスによって堂々と指摘されることによって、いよいよはっきりとその姿を現してきました。アンナスはイエスに応えることをしません。闇の中から光の下へ出て行くことをしません。アンナスは何も答えず、イエスを縛ったままカイアファに引き渡しました。

 アンナスはイエスを捕えて縛り、そして、イエスを殺すことによって、イエスを闇の中に葬り去り、自らの保身を勝ち取り、闇が光に勝利した、とほくそ笑んだことでしょう。しかし、闇の力に捕らえられ、闇の魔力の虜となり、闇に縛られているのはアンナスの方ではないでしょうか。死の闇の中に吞み込まれていくのは、十字架の死と復活の神の愛するイエスではなく、神の愛を拒んだアンナスの方ではないでしょうか。

 捕えられ、縛られ、死んでいったイエスは、もはや、誰も捕えることも、縛ることもできない、復活の命となって、再びやって来られます。光は闇の中で輝いています。

 

 

先週(7/18)礼拝説教片々

キリストの熱心」

 ガラテヤの信徒への手紙4章12~20節

 

「あなたがたが味わっていた幸福は一体どこへ行ってしまったのか」と、パウロは尋ねます。 「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」と、パウロは言います。あなたがた一人ひとりの内に、そして、ガラテヤの教会の人々の交わりの中心にイエス・キリストが生きているという信仰体験が、もう一度、生き生きと戻って来るまで、そして、復活のキリストがあなたがたのところへ再びやって来るまで、私は福音の喜びを伝え続けます、と使徒パウロはガラテヤの教会の人々に熱く語りかけています。

 かつて、ガラテヤの教会の人たちがパウロと共に味わった幸福がパウロの後にやって来た使徒たちの自分たちの民族主義に基づく別の福音理解によって失われていくというこの信仰の危うさの事実は私たちに何を語りかけているのでしょうか。それと同時に、そんなガラテヤの教会の人たちに変わることなく熱心に、有らん限りの情熱を注いで福音を語り続ける使徒パウロの姿の中から、私たちには一体何が見えてくるでしょうか。

 私たちの信仰生活において、自由に生きるということは聖霊に吹かれて、聖霊によって生きるということです。聖霊によって日々新たに生まれるということです。パウロの熱心、パウロの、有らん限りの情熱を注いで福音を語り続ける姿の中から見えてくるのは、キリストの熱心です。生けるキリストその方です。

 

 

先週(7/11)礼拝説教片々

「神の御手の中に」

   創世記 22章1~12節

 

「きっと神が備えてくださる。」これが今のアブラハムの信仰です。かつて神の約束の言葉を聞いたアブラハムは信じて待つことができず、サラの女奴隷であったハガルによって息子イシュマエルを儲けました。その時のアブラハムの信仰にあった不従順はもはやありません。神は必ず約束を成し遂げる方であるというのが今のアブラハムの信仰です。アブラハムは神が一体どのようにして約束を実現されていくのか、何も知らされていませんし、全く何も分かっていません。しかし、アブラハムは「きっと神が備えて下さる」と信じて生きています。神を信じるという私たちの行為、神を信じて私たちが生き続けるという行動は自分が主体である自分の思考の世界の中では実現しないでしょう。それは自分の思考の世界の中では捉えることができず、自分の世界を遥かに超えている世界から聞こえてくる自分に語りかけ自分を導く神の言葉に聞き従って、今、自分がいる場所から動き出して、一歩一歩、神の御前に進み出ていくという行動を通して実現していくでしょう。

 神が一体どのようにして約束を果たされるのか、何も分からないまま神の導く声に従って現実の自分の人生を生きていくことを通してしか神の約束されている神の世界は自分には見えてこないでしょう。自分が中心にいる信仰の世界から神が中心にいる信仰の世界へと、信仰の歩みを深めていくアブラハムの信仰の旅路がここに描き出されています。

先週(7/4)礼拝説教片々

「隠れたこと」

   マタイによる福音書6章16~18節

 

 「私が断食する」という行為は「私が悔い改める」という行為です。私が私自身の罪を知り、悔いて悲しんでいる私自身を表す行為となります。そんな私自身の姿を人に見てもらおうとして私が断食をする時、そこには断食をしている私自身を人に見せて、こんなに敬虔な私を人に誇り、自慢しているもう一人の私の隠れた意識、私の本心が現れているということをイエスは明らかにしています。私自身の罪を知っている私、私自身の罪を悲しんでいる私を誇らしげに人に見せて喜んでいるもう一人の私がそこにいる、ということをイエスは見抜いています。悲しんでいる私を誇らしげに自慢して喜んでいる私がいます。本心において私は喜んでいます。悲しんではいません。この時に至って、神の前における私の自己矛盾が明るみに出されています。神の前における人間の罪の一番深いところに、この私の意識、私のエゴが巣くっています。

 イエスの訪れは喜びの訪れです。福音は喜びです。神の御子が私たちの所にやって来られたことを通して神が私たちの方を向いて下さいました。神が私たちの方を向いて下さったから、罪人である私たちは神の方を向くことができるようになりました。これが福音の告げる悔い改めの行為の内容です。まず神が救いの行為を行って下さったから、罪人である私たちは神の救いの恵みの中で悔い改めることができます。だから、悔い改めるという行為は私たちの限りない喜びの表現です。

先週(6/27)礼拝説教片々

「キリストの愛」

   ヨハネによる福音書18章1~11節

 

 地上での最後の夕食の時を弟子たちと共に過ごした後、世の光である主イエスは弟子たちと共に夜の闇の中へ出て行きました。事の起こる前に主イエスが弟子たちに話した言葉が、弟子たちの目の前に事となって起こる時がいよいよ始まりました。これから起こる主イエスの逮捕も裁判も処刑も全て、父の意志と子の意志が罪人を救わんと一体となって進められていきます。イエスはキドロンの谷の向こうにある園に入って行きました。この園はイエスが度々弟子たちと共に集まっていた場所であったので弟子のユダも知っていました。今、この神の園の中で、神によって命を与えられ生きる者とされている人間は何をしているのでしょうか。最初の人、アダムは神の園において誘惑に陥り神から離れて生きる人となりました。そして、最後の人、イエスは神の国において誘惑に陥り神から離れて生きる人を再び神のもとに連れて帰る人となりました。そのイエスが今、夜の闇に包まれているこの園の中にやって来ています。そして、そのイエスに敵対しイエスと捕えようと捜している人たちも松明や武器をもってこの園にやって来ています。この園の中では今、イエスとイエスに敵対する人たちが向き合っています。そして、「わたしである」とイエスが言われた時、彼らは後ずさりして地に倒れました。子と父が一つとなりイエスを通して神の御名の栄光が現れ、これからイエスが行う十字架の死に至る業を通して神の救いの業が行われていく神の威光がこの園に輝いています

 

先週(6/20)礼拝説教片々

「生かされて生きる」

  ガラテヤの信徒への手紙4章8~11節

 

 キリストの愛を全身全霊で受けているパウロは日々新たにキリストの愛に生かされています。パウロの内には復活のキリストが生きています。キリストが生きているのでパウロも生きています。そのパウロが今、自分の生きる力の源であるキリストの愛をガラテヤの教会に繋がる人たちに全身全霊で伝えています。パウロの働きを通してキリストの愛がガラテヤの教会の人たちの福音を聞いて信じた心の中に注がれていきます。ここにキリストの愛を運ぶ器としてのパウロが生きています。

 パウロは現在のガラテヤの教会の人たちの間で起こりつつある一つの動きが、キリストの愛から離れて行こうとしている動きであることを知らせています。光ある場所から離れ、自ら闇の中へ入っていく行為であると警告しています。キリストの愛を受けているからこそ、キリストに愛されているからこそ、人は罪深くありながらも神の御前に立ちつつ神の子として新たに生かされ、新しく生きることが赦されています。いや、神の子として新しく生きることが神から求められています。この新しい命の恵みから離れて、一体どこで、生きることができるというのでしょうか。

 ガラテヤの教会の人々へのパウロの愛の強さはガラテヤの教会の人々の御子の霊を信じて生きる信仰の弱さを告発しています。それと同時に、その信仰の弱さにこそ、十字架につけられて死なれたキリストの愛が注がれているという溢れる霊の恵みを告げています。

先週(6/13)礼拝説教片々

「共に生きる喜び」

    創世記 21章1~8節

 

アブラハムと共に生きてきたこれまでのサラの人生を振り返って見れば、サラが歩んできた人生の道程は全て本人の思いを遥かに超えて神の御計画の中にありました。地上を生きる神の民の始まりは人間の側にあるのではなく、全てはその人間をお選びになった神の御心の中に秘められているということがアブラハムとサラを通して示されています。

 アブラハムとサラの間に神が約束した神の約束の子イサクは、神だけが与えることができる神の子でした。神の約束された言葉が神のなさった出来事となって実現する時がアブラハムとサラの間に訪れました。この世の人間の思いの限界を遥かに超えておられる神は御自分が約束された言葉を御自身の御計画に従って全く自由に実現されました。アブラハムとサラが共に生きてきたこの時までの波乱に富む二人の人生のその一つひとつの出来事が、実は神の御計画がこの地上に実現されていく道筋に他ありませんでした。今、イサクと共に生きる喜びで満たされているアブラハムとサラは、計り知れない神の御計画がこの地上に実現されていく道筋のその途上を、今、自分たちは歩んでいるという神の現実の中で生きている自分たち自身の姿に目覚めました。イサクと共に生きること、笑いを共にして生きること、このことを心から喜び、神に感謝しています。神に祝福され、神に生かされ、神と共に生きている自分たちであることを心から喜び、神に感謝しています。

 

 

先週(6/6)礼拝説教片々

「祈るということ」

   マタイによる福音書6章5~15節

 

十字架の死と復活を果たされ、今、神の栄光に包まれている御自身の姿を現しておられる神の御子が、御自身の栄光によって偽善に満ちた善い行為、善行を明らかにし、これを退けた後、次に御子は心の中で行われる祈りについても、その祈りにまとわりついている偽善を神の栄光で照らし出し、退けていきます。

祈りは神と自分との一対一の対話です。だからなおさら人に見せるためのものではありません。人に見せよう、人に聞かせよう、と人の目を意識して行われる祈りは偽善に満ちています。まして、人に教えてやろう、という調子が出てきたら、信仰的な傲慢さが現れていると言うことができます。では、どうしたら善いのでしょうか。傲慢さを脱ぎ捨て、真実に謙遜して、父なる神に心から祈ることができるようになるためには、何が私たちに求められているのでしょうか。

神の御子を十字架の死に追いやった自分自身の罪深さに本当に苦しんでいるか、本当に心砕かれているか、と御子から問われているように思います。それと同時に、自分のこの信仰の弱さの中に十字架の死を遂げられた御子が復活なさって、今、現れて下さっています。まさに奇跡と言うしかない神の恵みの出来事です。神から頂いた主の復活の信仰に素直に立ち帰る時、その時が真実の善に生かされてそれまでの一切の偽善を脱ぎ捨てる時となります。神への賛美と感謝の祈りを献げる時となります。

 

 

先週(5/30)礼拝説教片々

「善と偽善」

   マタイによる福音書6章1~4節

 

「右の手のすることを左の手に知らせてはいけない」と神の御子は言います。何故でしょうか。善い行い、善行とは、ただひたすらに神を愛し求めて生きる行為だからです。神を愛するという生き方の中に自分の命を捧げていくことだからです。神を愛して生きる姿が一途になればなる程、自分自身の思いは神に捧げられていきます。このような善行の中に神の報いが与えられます。ひたすらに神を愛し求めて生きるの中に入って来るのは神の愛のみです。神の永遠の命の息吹、聖霊のみです。神を愛し求めて生きる命の中に神の栄光が満ちてきます。

 「善」とは神からの「よし」を頂くことです。つまりそれは私たちがひたすらに神の栄光を愛し求めて生きるということです。神の栄光に輝く十字架の死と復活の命の主イエス・キリストを愛し求めて生きるということです。これに対して「偽善」とはこの世の「よし」を受けることです。つまりそれは私たちがこの世の栄華を愛し求めて生きるということです。神を愛しているように装いながら、実はこの世の栄華を愛しているということです。

 善と偽善。神の栄光とこの世の栄華。あなたはどちらを愛するのか、と山の頂から、今、神の栄光に包まれた私たちの救い主イエス・キリストの問う声が聞こえてきます。

 

先週(5/23)礼拝説教片々

「愛による一致」

  ヨハネによる福音書17章20~26節

 

私たちが1年の信仰の歩みを続けている中で、クリスマスの時をお祝いし、イースターの時をお祝いし、そして、今、ペンテコステの時をお祝いする時を迎えました。イエス・キリストの誕生という私たちの目に見える姿で始まった神の新しい救いの働きは、ペンテコステの時をお迎えしている今、聖霊降臨という私たちの目に見えない姿を取って絶えることなく力強く続けられています。

 人の子として生まれ、人の子として生きた神の御子が、今や神となられ、聖霊を送ることを通して神の栄光を現しておられます。私たちの友となって下さったイエス。私たちの兄弟となって下さったイエス。私たちのために苦しまれたイエス。私たちのために死んで下さったイエスは、その苦しみと死を通して私たちの真の王となられました。私たちに苦しみと死に対する勝利を与えて下さいました。そして、今も、聖霊を送り続けることを通して私たちを愛し、私たちを愛することを通して私たちをとらえていて下さいます。

 聖霊とは何でしょうか。聖霊とはイエス・キリストの霊、イエス・キリストの命です。今も生きて働いておられる神の栄光に輝くキリストの永遠の愛です。このキリストの愛、神の霊がこの世界に来て下さって私たちと共にいて下さいます。この神の恵みを思い起こし、深く味わい、心から喜び、祝い、記念する礼拝が、今、私たちが共にささげているこのペンテコステの礼拝です。

先週(5/16)礼拝説教片々

「時が満ちて」

  ガラテヤの信徒への手紙 4章1~7節

 

パウロはガラテヤの教会に集う人たちの信仰の歩みが重大な危機に陥っていることを警告します。イエス・キリストを通して神が新たに始められた救いの業から離れて、キリストの救いを知らない人間の罪の中の歩みに逆戻りし始めていると警告します。そしてもう一度キリストの救いの中へ導くために、パウロは死を避けることができない罪人に復活の命をもたらす聖霊の力溢れる愛の言葉を語ります。

 パウロは未成年の相続人の話に譬えながら語りかけます。イエス・キリストの救いを信じ信仰を告白して洗礼を受け、教会につながって生きている今、あなたがたはこの世の様々な力に支配されて生きているのではありません。あなたがたはキリストの愛につながり神の愛の力の支配の下で生きている神の子なのです、と語りかけます。

 時が満ちるまでは未成年の相続人は律法という監督の下に置かれています。時が満ちて神はその監督の下で奴隷状態にあった御自分の相続人を贖い出されました。時が満ちて御子を通して神によって贖い出された神の愛の相続人は神の子とされました。ですからここでパウロが言う、神が相続人に与えると約束されていた神の全財産とは御子の霊、聖霊の働き、即ちそれは神の愛による救いのことを意味しています。時が満ちて私たち罪人を神とつないでいく十字架の死と復活の命の主イエス・キリストという一本の命の道がこの世の中に現れています。

 

 

先週(5/9)礼拝説教片々

「主の導き」

     創世記 20章1~16節

 

神はアブラハムをゲラルの地に導きました。王アビメレクが治めるこの地で神はアブラハムに何を示されるのでしょうか。アブラハムがこの地にもたらしたものは「これはわたしの妹です」という自らの保身のための偽りでした。神に選ばれ、神に導かれて、神が約束されている地に向かって故郷を後にして、何が待ち受けているか分からない見知らぬ土地をさ迷い歩く人生の旅に出発したアブラハムにとって、生きるということはまさに命がけの旅でした。そのアブラハムに神が示されたことは、神の御前に人が正しく生きるということはどう生きることか、ということでした。死の恐怖を避けてとにかく生き延びれば良い、ということではないということでした。自分を偽って生きている時、その自分が向き合っている相手に対して自分は誠実に生きてはいません。この世で生きていく上で、自分が弱い立場であったとしても、あるいは強い立場であったとしても、一人の人間として神の御前に正しく生きるならば、死の恐怖を前にして逃げ出さず、殺されるという恐怖を通って神の御前に進み出るならば、そこで神の御心によって命を取り上げられるという大いなる畏れを知る人となります。神を畏れ敬って生きる人となります。神に召し出されたアブラハムがまさに命がけで生きている自分の人生を、人を恐れて生きる生き方から神を畏れて生きる生き方へと、王アビメレクとの出会いと交わりを通して神は導かれました。この後、アブラハムは「これはわたしの妹です」とは二度と言いませんでした。

 

(5/2)礼拝説教片々

「愛するということ」

 マタイによる福音書5章38~48節

 

「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とイエスは私たちに祈ることを命じます。祈ることなしに敵を愛するという私たちの問題は解決しません。キリストと共にあって祈る時、敵を愛するということはどういうことなのか、その意味が私たちにも少しずつ見えてきます。キリストと共にあって祈る時、私たちは自分自身の罪深さを知ります。それと同時に、私たちが神に背いていた時に、つまり私たちが神の敵であった時に、その私たちのために神は神の愛する独り子を与えて下さっていたということを知ります。神は御子を通して私たちの罪を完全に贖って下さっているということを知ります。敵である私たちを神は愛して下さっていたということを知ります。敵を愛する神の愛が「あなたがたの天の父の子となるためである」とイエスが言われる言葉に秘められている意味です。神の子であるイエス・キリストの命と共に生きる時、私たちもまた、神に愛され神の子とされて生きる、ということをイエスは教えて下さっています。

 イエスと共に生きるなら、イエスに聞き従って生きるなら、イエスによって私たちはどんなに罪深い者であったとしても神の子とされて生きることができます。神に愛されて生きることができます。その時、神は神の子を区別されません。神の子に対する神の愛は分け隔てがありません。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さるからである」とイエスは言われます。

 

(4/25)礼拝説教片々

「イエスの祈り」

  ヨハネによる福音書17章1~19節

 

 間近に迫った御自分の死の意味について弟子たちに打ち明けられたイエスは全てを弟子たちに話し終えられると、独り、静かに祈りに入られました。これまで地上に向けられていた御自分の目を天へと向けられました。弟子たちから天の父なる神へと御自分の顔を向けられました。「父よ、時が来ました」とイエスは父なる神へ全き信頼をもって呼び掛け、祈り始めます。祈りは独り言ではありません。信仰の世界の中で行われる神との対話です。

御自分が十字架に上げられる時が来たことを知り、子である自分の命を捨てることによって父なる神の栄光を現すことができますように、と父なる神に祈りました。父の栄光が子の十字架の死を通してこの世に現れますように、と子が父に祈り求める姿の中から、子が自らの意思で父の御心に完全に従って十字架の死を受け入れて生きている姿が現れてきます。死んでいく子を通して現れてくる父の栄光は十字架で死んでいった子なる神を父なる神が復活させることを通してこの世に現れてきます。

 神の子であるイエスがすべての人を支配する権能を発揮されるのは御自身の十字架の死を通してのみです。最も無力になると思われる御自分の死の時を受け入れることを通して大いなる神の救いの力が発揮されます。神の子の十字架の受難の時は信じない人たちにとっては神の裁きの時でしかありませんが、しかし、信じる人にとっては永遠の命の恵みが与えられる時となります。

 

 

(4/18)礼拝説教片々

「神の愛する子

 ガラテヤの信徒への手紙3章21~29節

 

 聖書が人々を罪の下に閉じ込めたのは閉じ込めること自体が目的だったのではありません。もっと大切な目的がありました。その大切な目的とは、神の約束がイエス・キリストへの信仰を通して、信じる人々に与えられるようになるためでした。神が約束されている救いをいくら求めても、自分の力では神の救いを掴むことができない、という自分の罪の現実を知る者こそに、神の救いはイエス・キリストへの信仰を通して恵みとして神から与えられるもの、という大切な目的が示されるためでした。だから、律法は神が約束されている救いの時へ導く、つまりそれは言い換えれば、イエス・キリストの十字架の時へ導く、という大切な役割が与えられています。

 キリストが来られた今、私たちは自分自身の罪深さを痛いほどに十分承知しつつ、しかし同時に、そんな私たちをイエス・キリストを通して救って下さっている神の愛に生かされて生きているという喜びを知っています。だから、私たち一人ひとりが神の愛する子です。私たちが自分自身の罪深さに苦しみ、自分の力の限界に圧し潰されそうになるその度ごとに、私たちはイエス・キリストの十字架の前へと導かれていきます。そしてその時が、神が約束されている救いの時、イエス・キリストが私たちの所にやって来て下さる時です。私たちを愛するイエス・キリストの死と復活が、死を恐れる私たちの小さな命を捉えて下さいます。キリストに結ばれて生きる新しい私たちの道を示して下さいます。

 

 

(4/11)礼拝説教片々

「命をかけて」

   創世記 19章10~21節

 

 夕暮れ時、神の御使いがソドムの街にやって来ました。これから深まっていく夜の闇の中で、神の御使いが後から来られる神の裁きと救いの道備えをしていきます。この神の御使いと関わることを通して、神を神とせず、自分の欲望のままに生きる人間が自ら破滅に向かって歩んでいる姿と、そのただ中から神の憐みに繋がり救い出されていく人間ロトの生きる姿が夜の闇の中から現れてきます。

 人間に対する神の裁きと救いが行われようとしています。一刻の猶予もありません。神の御使いはロトを急き立てます。ロトはためらっています。そんなロトを見捨てず憐れまれる主は手を取って町はずれにまで連れ出し「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない」と言われました。しかし、「主よ、出来ません」とロトは言います。自分の弱さをロトは問題にしていますが、その弱さの中に示される神の力を信じるのではなく、そんな弱い自分が納得する方法で救ってほしいと主に要求しているロトがここにいます。「あそこは近いのです」「ほんの小さな町です」と、こんな弱い人間である私でも行ける場所ですと、主に訴えるロトがここにいます。主は「よろしい」とお答えになりました。主はあくまでも寛大です。 避けられない神の裁きでありながら、しかし、その神の裁きは逃れることができない宿命として受け取るべきではない、逃れる道はある、救われていく道はある、ということがここで明らかになっています。

(3/28)礼拝説教片々

 

   「主への愛と信仰」

        ヨハネによる福音書 16章25~33節

 

 イエスと共にいる弟子たちにイエスの死による別れの時が迫って来ています。そして、イエスが弟子たちのもとから去り、父なる神のもとへ帰って行くことは弟子たちのためなのだと、イエスは弟子たちに話して聞かせます。何故なら、それは父なる神のもとへ帰ったイエスが再び父なる神から遣わされて、もう一度新たに弟子たちのもとに戻って来るためだからです。十字架の死による天への帰還の後には勝利の復活による弟子たちとの再会の時がやって来るからです。だから、イエスが弟子たちと共にいるという喜びがイエスの死と共に消滅してしまうことはありません。死別の悲しみを経験しますが、その悲しみは復活のイエス・キリストと出会う時に大きな喜びに変わると、今、別れを前にしてイエスは地上に残していく弟子たちに再会の喜びの訪れを約束しています。

 弟子たちはイエスを愛し、イエスを信じ、全てを受け入れます。死の悲しみを受け入れ、そして、復活の喜びを垣間見ています。別れを前にして弟子たちはイエスに信仰を告白します。「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と。神の愛に生きるイエスは弟子たちに約束されました。弟子たちはイエスを信じました。弟子たちの信仰を通して聖霊はイエスの死後、弟子たちを訪れます。再会の喜びが弟子たちを満たします。今、別れを前にしてイエスは弟子たちを励まします。「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 

 

(3/21)礼拝説教片々

 「神の約束」

ガラテヤの信徒への手紙3:15-20

 

  パウロは神に愛され、神の愛に生かされることによってユダヤ人でありながらユダヤ人であることに固執せず、自由にされて生きている人です。そのパウロが今、自分は誇るものを何も持たず、ただ神の霊によって捕えられ、神の愛を信じて、力の限り神の愛に生きた人こそが信仰に生きる人であると、アブラハムが信仰に生きた姿を示すことを通してガラテヤの信徒の人たちに語りかけています。モーセを通して神から律法が与えられるずっと以前に、神によって捕えられたアブラハムの信仰に立ち帰るようにとガラテヤの信徒の人たちに訴えています。アブラハムは神が自分に結んだ約束を信じて生きました。神はそれを「義」と認められました。神がアブラハムの信仰を「よし」とされたのです。ここにあるのは神の霊の働きとアブラハムの神への信仰のみです。神がアブラハムに結んだ約束は信仰に生きるアブラハムへの祝福と、そのアブラハムの子孫であるキリストの救いを信じて生きる全世界の人々へ与えられる神の祝福です。

「人の作った遺言でさえ、法律的に有効となったら、誰も無効にしたり、それに追加したりできません」とパウロはガラテヤの信徒の人たちに言います。まして、神がアブラハムに結んだ約束を一体誰が無効にしたり、それに追加したりすることができるでしょうか。そんな人は誰もいません。約束の霊を受けたのは福音を聞いて信じて生きたからです。この神の約束の確かさから離れないようにとパウロは訴えます。

 

(3/14)礼拝説教片々

「愛と正義」

 創世記 18章16~33節

 

神の正義に基づく神の裁きを決定するものは何なのでしょうか。大勢の悪い人たちの存在でしょうか。それともごく少数の正しい者たちの存在でしょうか。ここでアブラハムは神の正義に対して自分自身の強い確信に満ちた信仰を主に告白しています。その告白の言葉は感動的であり、神に選ばれた者として全世界の人間の立場を代表しているかのように主に向かって真摯に訴えています。「正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁く方は、正義を行われるべきではありませんか。」アブラハムの言葉に応えて主は言われました。「もし、ソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために町全部を赦そう。」

 ごく少数の正しい者がいるが故に大勢の悪い者を赦す、というのがこの世界に立てられる神の正義であり神の裁きであると主に訴えたアブラハムの主張を主は否定されません。主なる神の正義は数少ない正しい者に対する神の愛によって裏付けられています。神の裁きは数少ない正しい者に対する神の憐みを通して全世界に行われます。罪深いこの世界に滅びをもたらすのではなく、正義をもたらす創造主なる神は正しい者を愛して生かす神です。その愛ゆえに、罪人をも赦して生かす愛の神であるということをアブラハムを通して神は今、この世界に現わされました。

 

(3/7)礼拝説教片々

「主に委ねる」

 マタイによる福音書5章33~37節

 

主を前にして偽りの誓いを立てる人間の行為とはどんな行為を言うのでしょうか。今、主の言葉を聞いている人々の中で一体誰が、主の御前に進み出て、私は偽りの誓いを立てたことはありません、と言えるでしょうか。誰もいないにもかかわらず、私は偽りの誓いを立ててはいないと主張する人間の偽善を主は明らかにしていかれます。主の名によって誓うことをしないで、他のものにかけて誓うという詭弁を主は明らかにしていかれます。主の名による誓いは誠実に守らなければならないとする一方で、主の名によらない誓いはその限りではないとする偽善的解釈に中に潜んでいる不信仰を明らかにしていきます。

 主の名にかけて誓うことをせず、主と正面から向き合うことを避け、天にかけて、地にかけて、エルサレムにかけて、またあなたの頭にかけて誓っているあなたがたに、「私は言っておく。一切誓いを立ててはならない」と。天も地もエルサレムも全て神のものです。また人間の全存在も神のものです。だから主は今、守ることのできない、また守りたくない誓いなら、決して誓うな、詭弁を弄するな、守らなくてもよい誓いなどを発明してまで誓うな、と言っておられます。口先だけの空しい信仰はあなたを生かす力はない、と主は言っておられます。だから一切誓いを立ててはならないと言われる主イエスの言葉の本当の意味は一切の偽りの誓いを立てるな、あなたが立てる全ての誓いは主なる神の前での誓いであれ、ということです。

(2/28)礼拝説教片々

「聖霊の訪れ」

 ヨハネによる福音書 16章16~24節

 

受難節のこの時はこの世で生きる私たちを死の支配の下から神の支配の下へと導いていかれる主イエス御自身が先頭に立って十字架の死へ向かって歩んで行かれる時です。死という重い扉を開いて神の国に生きる復活の世界をこの世にもたらすために、主イエス自らこの世における御自分の死の時に向かって神と共に生きていく時です。そして、その主の後を主の救いを信じ求めて生きる私たちが離れずについて行く時です。

 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」と主イエスは弟子たちに言われます。今、主イエスは弟子たちのもとから去って行こうとしています。弟子たちはイエスが何故自分たちのもとから去って行こうとしているのかその訳が分かりません。分からないけれども弟子たちは主イエスの言葉を信じて生きる者たちです。神と共にイエス・キリストが十字架にかかり死なれ、そして、神と共に復活されて弟子たちの前に現れるその日、死に勝利している神の栄光が光り輝く神の恵み溢れる奇跡のその日には「あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない」「あなたがたは喜びで満たされる」と、今、主イエスは弟子たちに約束しています。やがて必ず訪れる復活のキリストと出会うその日を信じて、復活の命の光に照らし出されてこの世の全ての命が生き生きと新たに生き始めるその日を信じて、弟子たちは今、主イエス・キリストの後を離れずについて行く者たちです。

(2/21)礼拝説教片々

「キリストの救い」

 ガラテヤの信徒への手紙 3章1~14節

 

「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきりと示されたではないか」とパウロはイエス・キリストの十字架の奇跡の出来事を通して現わされた神の恵みの行為を信じて生きるガラテヤの教会の人々に訴えます。

 イエス・キリストを死者の中から復活させた神の大いなる救いの力である聖霊が満ちている時の中で、私たちは私たちの救い主イエス・キリストに導かれてこの地上での限りある生を生きています。そんな私たちが自分自身の信仰の弱さや自分自身の力の限界に悩む時はどうしたらよいのでしょうか。私たちが悩むその度ごとに、十字架の死と復活の主イエス・キリストの助けを祈り求め全てを委ねること、これ以外に私たちの取るべき道はないでしょう。そして、その度ごとに、主は主を信じる私たちを捉え、私たちに聖霊を注ぎ、私たちを聖霊によって新たに生きていく者としてくださいます。

 聖霊の満ちるこの時の中で、地上での日々を生き、主に祈り求める私たちは私たちに聖霊を注いで下さる主と共に歩んでいます。私たちの信仰がどんなに貧しくても、どんなに弱くても、主が私たちと共にいてくださいます。だから私たちはどんな時であっても希望の光が輝いていると信じることができます。イエス・キリストが十字架の上で死なれ、そして復活された今、「正しい者」とはイエス・キリストにおいて実現したこの奇跡の出来事を神の恵みの行為であると信じる者です。

(2/14)礼拝説教片々

「注がれた愛」                 竹田伸一牧師

 ヨハネによる福音書 15章11~17節

 

 

主イエスは十字架につけられる前夜、弟子たちに「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と語り、弟子たちを「友」と呼びました。残念ながら、弟子たちはその言葉の意味がわかりませんでした。やがて、彼らはキリストの十字架、復活、ペンテコステを経てすべてを理解します。あの夜、主イエスは彼らを愛して、自分の命を捨てる覚悟だったと。そして、十字架で命を捨ててまで彼らを愛し通してくださったと。16節には「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」とあります。当初、弟子たちは自分がイエスを選んだと思っていましたが、そうではなく、主イエスの方が彼らを選んだと語ります。

私たちも最初は自分で教会に来たと思いましたが、信仰が成長すると、そうではなく、多くの方々の祈りと神の導きがあったとわかります。神の愛と選びがあったからこそ、わたしたちは今教会にいるのです。

キリストの愛を知った弟子たちは多くの実を結びました。同じようにわたしたちも実を結ぶ者になるように選ばれたのです。

(2/7)礼拝説教片々

「思いやりの心」

マタイによる福音書5章27~32節

 

今、ここには、その声を聞く者の身も心も全て神のもとへ連れ帰る救い主イエス・キリストの声が、山の頂から山の麓に集う人々に聞こえてきます。

神の御心によって御子がこの地上に遣わされて来たのは、罪の支配の下で生きている御自分の民を神の支配の下に連れ戻し、罪の苦しみから救い出し新たに生かすためでした。神を前にして、神の正しさ、神の義に適い、神の裁きに耐えうる人間は一人もいないでしょう。神の義は、表に現れた行為だけではなく、表に現れない、人には知られることのない心の中の密かな思いさえも見落としません。私たち人間の心の底の僅かな揺らぎさえも神の裁きと無関係ではないと、今、御子によって告げられています。

だからこそ、御子はその罪から御自分の民を救うために父のもとからやって来ました。御子は目に見えてこない人の心の底に秘められた罪を、その人と共に担って生き、そして、共に神の裁きを受けて、罪人の頭、罪人の王となって十字架に架かりました。それは共に死んで下さった御子の死による贖いの故に、その罪人の罪が神に赦され、その死を通して神から与えられる復活の命に生きる新しい命の道をこの地上に備えるためでした。

御子が私たちと共におられる今、私たちは心の中の自分の思いを全て包み隠さず、正直にありのまま主に打ち明けて、主に受け止めてもらえばいいのです。主は受け止めて下さいます。そして、わたしについて来なさい、と新たに生きる道へ私たちを招いて下さいます。

 

 

(1/31)礼拝説教片々

「聖霊の働き」

 ヨハネによる福音書 16章1~15節

 

 今、イエスは弟子たちのもとから去って行こうとしています。弟子たちはイエスが去って行くということを聞いただけで、もう悲しみで胸が一杯になっています。もうこれ以上、自分たちのもとから去って行くイエスの言われる言葉を聞くことは耐えられないという状態になっています。この時の弟子たちはイエスの行き先やその目的を尋ねる勇気はありませんでした。そんな弟子たちを愛しておられるイエスは言われました。「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのはあなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである」。

 弟子たちはイエスが何故死ななければならないのか、その訳が分かりませんでした。弟子たちの悲しみに閉ざされた心は、もうこれ以上イエスの言葉を聞くことはできない、という状況に置かれていました。しかし、地上でイエスが弟子たちと共にいた時、イエスが弟子たちに十分語り尽くせなかったことは、イエスが去られた後、真理の霊が弟子たちのもとに来て、すべてを明らかにして下さると、イエスは弟子たちに約束されます。死別の悲しみの後から新しい時がやって来ると予告しています。イエスが去って行くという悲しみで終わるのではなく、その悲しみの後に訪れる真理の霊の時は全てが明らかになる時だとイエスは言われます。闇の中に光輝く時であるとイエスは今、弟子たちに語っています。

 

(1/24)礼拝説教片々

「救い主と共に」

 ガラテヤの信徒への手紙2章15~21節

 

 神の救いを信じて生きるユダヤ人であるパウロが、同じように神の救いを信じて生きるユダヤ人ではないガラテヤの教会の信徒の人たちに伝えたかったことは何なのでしょうか。

 パウロにとって、旧約以来、神が人間を救おうとされる神の愛は、イエス・キリストの十字架と復活において決定的な形であらわされました。律法によらず、神の愛が直接パウロを捉えました。神の愛にじかに触れたパウロは、この時から神を信じて生きる生き方がこれまでとは全く変わりました。これまでの自分が律法を守る行為によって、神から自分が「よし」とされる生き方、「義である」と認められる生き方から、自分の行いではなく、キリストの行いを自分が信じることによって、神から自分が「よし」とされる生き方、「罪は贖われた」「義である」と神から認められる生き方へと変えられました。

 もうすでに、直接神の愛を受けて、キリストの贖いの行為による救いを信じて生きている以上、もはや自分が律法を守る行為によって神から「よし」とされるとしていた律法による救いから解放されているのに、どうして今再び、自分が律法を守ることを神の救いに与るための条件としようとするのですか、それでは未だに自分が神の前に赦されていない「罪人」として生きていることになってしまうではないですか、とパウロはガラテヤの信徒の人たちに訴えます。キリストの死はどうなってしまったのですか、キリストの死を無駄にしてしまうのですか、とパウロはガラテヤの信徒の人たちに訴えています。

 

 

(1/17)礼拝説教片々

「神の御心」

    創世記 18章1~15節

 

 もし、天地万物の創造主なる神が、今、自分に現れたらどうしますか。天地万物の創造主なる神がアブラハムに現れた時、アブラハムはどうしたでしょうか。

 主がアブラハムに現れました。一目見た瞬間、アブラハムは主であると悟りました。大急ぎで主の前に走っていき、ひれ伏して言いました。「アドナイ(我が主よ)」と。ここには主の契約の言葉が生きています。アブラハムにその力を発揮しています。主の契約の言葉がアブラハムを捉え、アブラハムを生かしているということができます。アブラハムに結んだ主の契約の言葉とはどんな言葉だったでしょうか。アブラハムとサラの間に男の子を与えるという言葉でした。語り終えられた主が天へ昇って行かれ、地上に残されたアブラハムは神が契約を結んだ者のしるしとして割礼を施し自らにしるしを刻みました。そして、再び主がアブラハムに現れました。その主を見たアブラハムは主の前にひれ伏して言いました。「わたしの前を素通りしないでください」。この時はもう笑っていません。心の中で密かに呟いてもいません。そして、アブラハムの歓迎を受けた主はアブラハムを通してアブラハムの妻であるサラに現れていきました。主の契約を主から直接聞いたサラは心の中で呟き、そして、密かに笑いました。

 笑ったアブラハムを主が導いているように、今、主は笑ったサラをも導いています。そのために主はアブラハムに現れました。主の恵みの業の中へサラをも導き入れています。

 

(1/10)礼拝説教片々

「愛するということ」

   マタイによる福音書5章21~26節

 

 殺すな、と主イエスは言われます。何故なら人を殺したものは裁きを受けるからです。しかし、主イエスが来ておられる今、神の裁きを受ける者は兄弟に腹を立てる者である、と主イエスは言われます。主イエスが来られる前までは、実際に人を殺すという罪ある行為をした者が神の裁きを受ける者でした。しかし、主イエスが私たちと共におられる今は、殺すという罪深い行為となって表に現れてくる前の心の中の思い、殺したいという罪深い思いが、神の裁きの座に引き出されている、ということを救い主であるイエスは私たちに教えてくださっています。殺すという罪深い行為の前には殺したいという罪深い思いが先にあります。私たちの心の中に敵意が生まれ、怒りが起こり、抑えきれない殺したいという心の中の罪深い思いは、殺すという罪深い行為となって実を結びます。

 神と私たち人間との関係は私たち人間の心の奥の一番隠されたところから始まります。神の前に立つ人間の心の奥に秘められた自分の思いから始まります。神の光は私たち人間の心の隅々まで照らし出す光です。主イエスが言われるこの厳しい言葉は私たち人間の心の闇を照らし出します。主イエスが言われるこの厳しい言葉に、今私たちは本当に裁かれ、そして、本当に救われているでしょうか。このキリストの福音を通して神の言葉の厳しさに目覚めて神の前に倒れ、そして、キリストによって再び立たされた私たちであるなら、私たちはキリストを通して神と和解させられています。

 

 

先週(1/3)礼拝説教片々

「待ち望む喜び」

    ルカによる福音書2章25~35節

 

 クリスマスの喜びの中で私たちは新しい1年、2021年を迎えました。私たちの救い主であるイエス・キリストが生きる命、死んで復活する永遠の命の力に導かれて、神の国へ向かう私たちの新しい1年の歩みが始まりました。主が私たちと共にいて下さり、私たちの新しい1年の歩みを神の国へと導いて下さる恵みの1年が始まりました。何という大きな喜びが私たちを包んでいることでしょうか。この新しい恵みの1年、何が起きるのか、どんな年になるのか、今の私たちには分かりませんが、どんな時も主イエス・キリストから私たちが離れて行かないようにしてくださいと祈ります。

 主イエス・キリストがこの私と共にいてくださるという命の恵みを受けた時、その時、この私は一体何を知るのでしょうか。主イエス・キリストが生きた命こそがこの私への神の愛のしるしであるということを、この私は湧き上がる喜びと感謝と共に知る人となります。キリストの命がどんなにこの私を生き生きと生かしていることか。死ぬことへの恐怖さえも、もはやこの私を捉えることができないという事実を今日の私たちの聖書の言葉から聞きたいと思います。その私の名はシメオンです。シメオンは幼子イエスを我が腕に抱いて、神を讃えて言いました。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕しもべを安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」何と幸いな人でしょうか、主イエスを迎え入れる人は。私たちもこの幸いを神に感謝する者たちです。

 

 

(12/27)降誕節第1主日礼拝説教片々

「救いの光」

    マタイによる福音書2章1~12節

  

 私たちの救い主である神の愛する独り子が、私たちが生きるこの地上にお生まれになりました。神が御自身の大いなる愛をもって与えて下さったこのはかり知れない大きな恵みを私たちは確かに頂きました。主イエスがこの世にお生まれになってからは、この世に生きる私たちの限りある命のその生きる様が、救い主イエスの命の光に照らし出されて私たちの目に見えてくるようになりました。

 イエスが誕生した時、イエスが誕生した国では大いなる不安が人々を捉えていました。この不安の中で人々はどのように生きたのでしょうか。そして、この大いなる不安の中から大いなる喜びの中へと救い出されていった人はどのように生きた人なのでしょうか。福音書は3通りの生き方を示しながら、大いなる喜びへと通じる一筋の希望の道を明らかにしています。一つ目の生き方は、メシアの誕生を知った時、自分の地位や財産などを失うことへの恐れからメシアを受け入れることをあくまでも頑なに拒絶していくという生き方です。ヘロデ王の生き方にそれを見ることができます。二つ目の生き方は、メシアの誕生を知った時、その場所を知っているが自分は行かない、何もしない、現状のままでいるという生き方です。祭司長や律法学者の生き方にそれを見ることができます。そして三つ目の生き方はメシアの誕生を知った時、メシアと出会うために自分の人生を捧げていくという生き方です。遠く東の方からやって来た学者たちの生き方にそれを見ることができます。

 

(12/20)クリスマス礼拝説教片々

「満ち溢れる喜び」

        ルカによる福音書2章8~21節

 

アドベントの灯火が四つ灯されました。時が満ちました。私たちは神の愛する御子の誕生の時を迎えました。天地万物の創造主でありすべての命の源である神の御心がこの地上に示される時がやって来ました。神の御心を信じ、その神の御心を神は自ら明らかに示して下さる方であると信じて、その時の訪れを待ち望んで生きる人の命に、神は御心を現されました。明らかに示された神の御心は愛でした。愛が命を恵み豊かに生かしていきます。

 神は最も小さく弱かった乙女マリアに神の愛を宿し、神の愛する御子を生んだ恵まれた母マリアとなって生きる新しい命を与えました。また、神は正しい人として生きてきた夫ヨセフに神の愛する御子の命を宿した妻マリアを我が妻として迎え入れる恵みを与えられ、御子の母となったマリアと共に御子の父となって神の愛に生きる新しい命を与えました。今、神の愛する御子が生きているこの場所からは神の愛が光輝いています。神の御心を知り、神の御心である神の愛の力に信頼し、今、自分が生きているこの命を全て神の愛の力に委ねて生きている人がここにいます。マリアとヨセフ、そして、飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子がここにいます。そして更に、この世の混沌とした闇の中に輝きだした真の命の光を見出していった人は、その地方で野宿をしながら夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちでした。暗い夜の闇の中から主の栄光の中へ招き入れられた羊飼いたちは主の栄光の中で主が語られる声を聞き、主が語られたとおりの現実を生きる者となりました。

 

(12/13)礼拝説教片々

「待ち望む神の恵み」

   ルカによる福音書1章26~38節

 

 アドベントの灯火が三つ灯されました。これまで通りの世の中であったなら見落とされ忘れ去られていくような小さな人の命を救い上げ、その小さな命に新しく生きる命の灯火を灯すことを通して、聖霊の永遠の命の力強い活動はこの地上に現れて来ます。神からこの新しい命の灯火を灯された恵まれた小さな人は誰でしょうか。

 神の恵みを受け、神の力が注がれ、聖霊が先立って導いていく新しい一年がその小さな人にもたらされました。神が備えて下さった新しい恵みの一年がこの私のこれから生きていく新しい一年です、と神に信仰告白し神の導きに自ら従っていったのは全く小さな存在にすぎない乙女マリアでした。聖霊の働きが満ちていく中で、マリアは自分に告げられている神の言葉を聞きます。これからヨセフと結婚してヨセフと共に新しい人生を生きていこうとしているマリアの人生そのものが、神の恵みが与えられ、神の力が注がれ、聖霊が先立って導いていくマリアの人生となっていく、と言われる神の言葉をマリアは聞きます。

 聖霊の永遠の命の力強い働きがマリアを包み込みマリアを新しく生かそうとしています。聖霊の働きに包まれてマリアは心を開き自ら聖霊の働きの中に我が身を委ねていくことを通して癒されていきます。聖霊があらゆる不安や恐れからマリアを救い出し新たに生きることへと導きます。「神にできないことは何一つない。」マリアは答えます。「わたしは主のはしためです。お言葉通りこの身に成りますように。」

 

(12/6)待降節第2主日礼拝説教片々

「共に生きる希望の光」

   マタイによる福音書1章18~25節

 

 アドベントの灯火が二つ灯されました。この希望の光に照らし出されて、この世の闇の中から姿を現してくる人は誰なのでしょうか。主の導きを信じて、自分を取り巻くこの世の混沌とした闇を恐れる気持ちから自由にされて、信じて生きる喜びに満たされて、勇気を与えられて、光射す方向へ向かって生きていく人とはどんな人なのでしょうか。独り、心の内で深く苦しい葛藤する時を経て、夜明けを迎える人とはどんな人なのでしょうか。その人の姿を福音書はヨセフとマリアが結婚して一組の夫婦となり共に生きていくという、全く新しい人生を始める時の心の内を描くことを通してあらわしています。マリアの夫となっていくヨセフの心の内に灯ったアドベントの希望の光に照らし出されてあらわれてきた、ヨセフの心の内の闇から光へ向かう深く苦しい葛藤に満ちた歩みを共に見つめていきたいと思います。マリアは聖霊によって新しい命を宿しているという、全く人知を超えている出来事が正しい人であったヨセフを圧倒し、この出来事がヨセフを結婚という新しい人生の門出の時から後ずさりさせています。正しい人であったヨセフはひそかにマリアと離縁しようと決心しました。そして、ヨセフの決心が実行されるまさにその前に、神が介入されました。敬虔なヨセフが信じて生きるその神がヨセフの心の内にあらわれました。ヨセフの心の内に新しい希望の光が灯りました。この光が夫ヨセフを闇の中から光射す方向へ導いて行きます。ヨセフとマリアの結婚は神の祝福の中にあることが明らかになりました。

先週(11/29)礼拝説教片々

「まっすぐに歩む」

ガラテヤの信徒への手紙2章11~14節

 

 今日のこの待降節第一主日礼拝が始まると共に一つの灯が灯されました。この小さな光は私たちの信仰の内に灯った新しい希望の光を表しています。この小さな灯火は神を信じる私たちの小さな信仰の光です。そして、この小さな灯火は神を信じる信仰を私たちに与えて下さっている神の大きな恵みの光です。この小さな一つの光からは大いなる神が私たちと一つに繋がり、共に生きている愛の炎が燃え上がり輝いています。私たちと共に生きるために大いなる神は御自身を限りなく小さくされて、私たちが生きる小さな命と同じ命にまで小さくなられました。神は私たちと同じ一つの小さな命を生きて下さることを通して、いつも共に生きる命の神である御自身の無限の力を私たちに現されました。神がこの私たちと出会って下さいました。ここに神の愛が輝いています。何という喜びでしょうか。

 ペトロを愛し、パウロを愛し、個性豊かに生かしていかれたキリストは、今、私たち一人ひとりを愛し、個性豊かに生かして下さっています。私たちは、今、キリストの愛、私たちの生きる希望の光を見つめています。待降節が始まりました。御子の御降誕、その時に向かって、今、私たちそれぞれが立っている場所から、恐れずに、心の底からまっすぐに歩んで行くことができますようにと、信じられないという恐れから信じて生きる喜びへと、新しく灯った希望の光の導きを信じて祈り、待ち望む時が始まりました。私たちが喜びに満ちて、なお待つことができますようにと、祈る時が始まりました。

先週(11/22)収穫感謝日合同礼拝説教片々

「恵み深い主」

    詩編 65編 6~14節

 今、神の前に立ち、私たちのこの一年間の歩みを振り返って見ると、私たちのこの一年の歩みそのものが、「わたしに聞き従って生きるように」と神が私たちに言われ、そして神が私たちを導き、神が私たちに与えて下さった恵みの一年であった、ということに気づかされます。神が私たちを生かして下さり、成長させて下さっていたこの一年という恵みの中を私たちは生きていたのだ、ということに気づかされます。今の私たちは一年前の私たちと同じではありません。この一年の歩みが私たちを、私たちが歩んだ分に応じて、成長させています。私たちの一年の成長の実りが、一年経った今の私たちです。私たちはこのように私たちを成長させて下さり、私たちが生きるこの小さな命を実り豊かな命にして下さっている神に心から感謝して礼拝を捧げています。

 この地上に蒔かれた一粒の小さな種が、一年という与えられた時間の中で芽を出し、成長し、豊かな実を結んで収穫の喜びの時を迎えるように、私たちは今、この一年の私たちの小さな命の歩みの実りの時を迎えています。私たちは私たちの命の実りを喜んで収穫し、今、この礼拝に与ることを通して神の御前に捧げています。

 収穫の時は一年の中で最も恵みを感じる喜びの時です。この喜びは私たちだけの喜びではありません。私たちの生きる喜びの源である神の喜びと一つに繋がっています。地上の喜びと天上の喜びが一つとなって神の創造の業の実り豊かさを褒め称えています。

 

 

先週(11/15)召天者記念礼拝 説教片々

「新しい命」

  ローマの信徒への手紙6章1~14節

 

 パウロはこのように言っています。「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」

 十字架の死と復活の主イエス・キリストを我が救い主と告白し、洗礼を受け、キリストの体であるこのひばりが丘教会の教会員となり、教会につながって生きる私たちの命は私たちの肉体の死を超えて、死んで復活されているキリストと霊において一つにつながっています。私たちは死んで復活されている命であるキリストと一つにつながって生きているので、私たちが死ぬ時はキリストが私たちと共に死んで下さる恵みの時です。また、死なれたキリストが聖なる霊において復活される時は、死んだ私たちも復活されたキリストの命に与り、復活されたキリストと共に私たちの肉体の死を超えて、私たちも新しい命に生きることができる恵みの時です。聖なる霊の力によって、古い命に死んだ私たちは新しい命に生きる恵みに与ります。

私たちは死においても、また、生においても、いつもどんな時であっても、イエス・キリストの恵みの中にいます。私たちはこの地上においても、また、天においても、どこでもどんな場所であっても、イエス・キリストの恵みの中にいます。主の限りない慈しみを受けてわたしたち一人ひとりの人生は、主の導きと祝福の中に置かれています。

 

 

先週(11/8)礼拝説教片々

「神と人との距離」

   創世記 17章17~27節

 

 今、ここには、ひれ伏し、そして、笑ったアブラハムがいます。礼拝するという態度を取りながら、しかし、心の中では神が言われる言葉をそのまま受け入れられません。とても信じられない、というのがこの時のアブラハムの正直な気持ちです。ここには、神を信じているアブラハムと信じていないアブラハムがいます。もう笑うしかないというような、どうしたらいいのか自分でも分からないような、全く矛盾しているアブラハムがここにいます。しかし、これが私たち人間のありのままの姿ではないでしょうか。アブラハムが神を信じる信仰に嘘はないでしょう。アブラハムは神を信じているにも関わらず、自分に言われた神の約束の言葉をそのまま素直に信じることができませんでした。

 老いが目の前に迫り、もはや逃れられない自分の現実となった時、夢を見ることを諦め、これが私の現実なのだ、と今あるもので満足して、よし、とする人生もあるでしょう。この時のアブラハムの心の中にはそのような思いがあったのではないでしょうか。未来を信じて生きるよりも、今日まで生きてきた自分の過去の確かさを信じて生きているのではないでしょうか。過去と未来の狭間にあって、今、諦めていく思いと、望み得ないことを神に望んでいく、まるで心が引き裂かれて行くような苦しい思いに捉えられている自分を全てありのまま、神の前に投げ出し、委ね、アブラハムは神の前にひれ伏し、御心のままに、と切なる祈りを献げていたのではないでしょうか。

 

先週(11/1)礼拝説教片々

「救いの完成のために」

  マタイによる福音書5章17~20節

 

 「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで」と主は言われます。神の創造の業がすべて完成するその時までは、神が創造された被造物である天と地のすべてのものの中から栄光に輝く創造主ご自身が完全に現れ出るその時に至るまでは、旧約聖書全体に記されている神がご自分の民をご自分と共に生きる命としていくための神の教えの言葉、神の導きの言葉は決してその光を失うことなく輝き続けています。神の創造の業の完成の時に向かって、決して倦むことなく力強くご自分の民を育て、教え導く命の言葉であり続けます。

 だからこそ、創造主なる神は神の民が生涯を送るこの地上に主イエスをお遣わしになりました。神の民がこの地上で生きることを決して倦むことなく、決して神から離れることなく、神と共に神の国に向かってこの地上を生き続ける命であるために、神はご自分の民に御子の命をお与えになりました。この地上で罪に染まり、罪を背負って生きる人間の歴史が続く限り、その罪人の罪を贖いながら、罪人と共に生きることを通して神の愛の創造の業をこの地上に現し続けていく神の愛する独り子の歩みは止まることはありません。神の愛する御子の歩みは神の民と共に続いて行きます。

 ファリサイ派の人々の義に勝るあなたがたの義とは、人間が自分のために行うことができる義を超えている義です。それは神のみが、ご自分のためではなく罪人のために行うことができる義、即ち、十字架の死と復活を通して示された神の義を信ずる信仰です。

 

 

先週(10/25)礼拝説教片々

「人の心の闇」

  ヨハネによる福音書15章⒙~27節

 

 生きて働く聖霊が主イエスの愛を通して弟子たちに注がれています。主に愛され、聖霊の働きに生かされている弟子たちの主の愛に応えて生きていく道が、弟子たちの前に備えられていきます。この地上に残されていく弟子たちが、自分たちに注がれている目には見えない聖霊の働きに生かされて、新たに生きていく道はどんな道でしょうか。十字架の主の後について行く道とはどんな道なのでしょうか。

 愛の主イエスは、憎悪と殺意をご自分に向けて来るこの世の罪深い人々を憐み、救うために、主の愛を拒み続ける罪人のその憎悪と殺意をありのままご自分の身に引き受けられてなお、その罪人と共に神の国へ救われて行く道を示すために受難の道を歩まれ、ついには十字架の死へと進んで行かれました。だから、その主の愛に生かされて生きるが故の弟子たちの歩む道はこの世における罪を背負って、神の国へ向かって歩む受難の道となります。

 主の愛を拒絶することで保とうとしていたこの世の人間だけの世界で生きることが、何と暗く、貧しく、空しいことであるか、主イエスを十字架につけて殺したその後に、罪深い人々は知ることになります。そして、この空しさの中で、主の愛によって自分自身の暗さ、貧しさ、空しさに目が開かれた者は幸いです。何故なら、主の愛は死によっても滅ぼされなかったからです。弟子たちが信じる主は十字架で死なれた主であり、復活された主であるからです。弟子たちが信じる主は永遠の命である愛の主イエス・キリストその方であるからです。

 

先週(10/18)礼拝説教片々

「主にある交わり」

  ガラテヤの信徒への手紙2章1~10節

 

 エルサレム教会の指導者たちとパウロとバルナバは対等な立場に立ち交わりのしるしとして握手を交わした、とパウロはガラテヤの信徒の人々に手紙を書き送っています。こうしてエルサレム教会とパウロは対等の立場で交わる教会の一致が成立したということが明らかになりました。それと同時に、今、ガラテヤの信徒の人々を脅かしているエルサレム教会の権威を笠に着たパウロの反対者たちのパウロに対する非難は、全く不当なものであるということが証明されました。

 パウロにとって、全ての人がイエス・キリストに対する信仰によって神の子であるなら、そこには人種差別も、階級的差別も、男女の性的差別も存在しませんでした。イエス・キリストにあっては、割礼を受ける、受けない、は大切なことではなくなりました。大切なことは愛によって生きて働く信仰だけでした。そして、聖霊による新しい創造こそが大切なこととなりました。

 神の恵みの現れであるキリストの福音の光に照らし出されるならば、全ての人は平等であり、誰であっても、その人が求めるならば、何の制限もなく、キリストにあって神に近づくことが出来ます。ユダヤ人も異邦人も共にキリストを信じる信仰によって真の神の民、聖霊による真のイスラエルである教会をこの地上に現すことにより、キリストの体である教会の完成、神の救いの業の成就を、パウロは見据えていたのでしょう

 

 

先週(10/11)礼拝説教片々

「新たな展望」

   創世記 17章1~16節

 

 名は体を表す、と言います。一人の人間の名が呼ばれれば、呼ばれたその名は単に固有名詞が言われたにすぎないことではありません。その名で呼ばれた一人の人間がそこにいる、ということを意味しています。ですから、名が変わるという出来事は、その人に何らかの変化が起こった、ということを意味しています。

 そして、契約が結ばれるということは、互いに正面から向き合う両者の間に結ばれるという出来事です。結ばれた契約の言葉を通して、両者の関係が現実となります。ですから、契約は単なる漠然とした要求ではありません。一つの共通の約束のその言葉の中に、二つの全存在が入る、生きる、ということを意味しています。

 神御自身がアブラムに向かって言われる「わたしの契約」によって、アブラムは神の契約の相手となりました。「わたし」である神から「あなた」と呼ばれる者となりました。その時、「アブラム」という名が「アブラハム」という名に変わりました。神がアブラハムに向かって言う「わたしの契約」を通して、アブラハムは神から「あなた」と呼ばれて生きる一人の人間となりました。また、神も、アブラハムにとって単なる漠然とした観念的な神ではなくなり、アブラハムから「あなた」と呼ばれる生ける神となりました。この時から、神とアブラハムはこの「わたしの契約」を通って、新しい関係の世界の中で共に生きる命となって行きます。

 

 

先週(10/4)礼拝説教片々

「地の塩、世の光」

  マタイによる福音書5章13~16節

 

 「地」とは旧約聖書の創世記以来、堕落しやすいもの、汚れたもの、という意味を含む言葉です。「塩」は塩自身の働きによって、塩が浸透していったものの腐敗を防いでいます。ですから、もし、地の中に塩が浸透していかなければ、地は腐敗していくのみとなるでしょう。塩が地に染み透って行けばこそ、塩がこの地で塩として生かされ、用いられればこそ、この腐敗していく地のなすがままにはならず、塩の働きが地の腐敗を阻んでいます。もし、塩が地に浸透していなければ、腐敗していく地に神の裁きが及んで来るでしょう。それを塩が防いでいます。そして、この地の塩の働きは、まさにイエス・キリストご自身の愛に生きる命の働きそのものです。

 罪人を愛する命は罪人を生かす命です。地に染み入る塩のように罪人に生気を与え、生きる喜びと感動をもたらします。イエス・キリストが共に生きていて下さるからこそ、罪人である私たちは、罪に対する神の裁きから免れています。更に、自ら地の塩となって地を救う命の働きはこの世を照らす希望の光となります。この光は愛する相手の中に自ら消えて行くことを通して、愛する相手を生かしていく愛の輝きです。ご自分の愛する罪人を救い、生かす、この命の貴い輝きは、この罪の世を照らす希望の光です。私たちが生きる命はイエス・キリストの命と共に生きる命です。地の塩となって働き、暗いこの世を照らす光となるイエス・キリストの愛が生きてくる命の歩みを、主に導かれつつ前に進めて行きます。

 

 

先週(9/27)礼拝説教片々

「恵みの聖霊」

 ヨハネによる福音書14章15~31節

 

 死の恐怖に支配されている弟子たちに主イエスは死の恐怖に支配されて生きる時が終わると告げます。死に対する恐れから自由になって生きる時がしばらくすると神から贈られてくると告げます。だから、今、私が語る言葉を信じて「心を騒がせるな、おびえるな」とご自分の愛する弟子たちを励まします。

 主の平和は主の死を通って私たちの前に現れて来ます。死んで復活されている主の永遠の命の活動である聖霊の恵みを受けることによって主の平和は私たちに与えられます。主の平和は人の死の現実を覆い隠したりしません。何故なら、人の死は神から切り離される出来事ではないからです。神は人の死においても共におられます。人の死は主がその人の死を共に死んで行かれることを通して、その人を死においても主の愛の御支配のもとにおいているということを明らかにしています。人の生も、人の死も、共に主の平和の中にあります。主の平和は永遠に死に勝利している真の命の平和です。

 永遠に死に勝利している主の平和とはどんな平和なのでしょうか。この地上での私たちの肉体の衰え、病や患い、そして死を経験してもなお終わることなく続く主が与えて下さる主の平和とはどんな平和なのでしょうか。それはこの地上に受肉された主イエスとの交わりだけでは終わりません。この地上での主イエスとの交わりを通して更に大きな天の父なる神との聖なる霊の交わりの中へ復活を通して招き入れられている神の大いなる平和です。

 

 

先週(9/20)礼拝説教片々

「神の選び」

ガラテヤの信徒への手紙1章11~24節

 私たちが信仰に生きる歩みは私たち自身の歩みであると同時に私たちと共に歩んで下さる主の歩みでもあります。主が共に歩んで下さるとの信仰の恵みを与えられているからこそ、私たちは自分自身の人生を生きていく力が与えられます。生きる意味が見い出せず、うずくまり一人悩んでいる時、主はそんな私に近づいて来て「わたしについて来なさい」と復活の命に生きる道を示して下さいます。パウロは何よりもそのことを、つまり、神を信じて生きる人とは神の力に全てを委ねて自分の人生を生きる人である、ということをガラテヤの信徒に伝えたかったのだと思います。人間である自分の側に神が人間を救うために必ず必要なもの、これがなくては神は人間を救うことができないというような人間が握っている決定的な条件などは何もない、ということを伝えたかったのだと思います。人間が神に救われるためになくてはならぬ必要なことはただ一つです。イエス・キリストの福音を信じることのみです。その時から復活のキリストの命の力に与って生きるキリスト者の全く新しい人生が始まります。神のこの大きな恵みの力に包まれたパウロは人間の熱心さによっては到底及ぶべくもない神の愛の熱情に満たされて行きました。その時からキリスト者となったパウロの全く新しい人生が始まりました。パウロに示された神の御心は恵みの福音を異邦人に知らせることでした。キリストの福音を全世界へと伝えていく神の御心がパウロを捉え、パウロと共にあり、パウロを生かしています。

 

 

先週(9/13)礼拝説教片々

「大いなる暗黒の中」

   創世記 15章7~21節

 

 神の永遠の契約がアブラムに与えられました。神の永遠に続く創造の業の中で、アブラムは生かされ、用いられて行くという神の契約がアブラムに与えられました。神の言葉はアブラムが生きていくアブラムのこれからの人生を通して神が行う神の創造の業を告げています。子孫を与えるという神の言葉。土地を与えるという神の言葉。神のこの言葉がアブラムに与えられているからには、現実の生活の中でその実現がどんなに遅く感じられているとしても、あるいは人間的な思いに駆られて神の言葉から離れて行く行動をとったとしても、神の言葉は必ず実現するという神の契約の言葉の永遠性が力強く表現されています。神の言葉が神と人間アブラムを繋いでいます。

 たとえ今、自分が夜の闇の中にいるとしても、神が自分を見捨てているのではありません。必ず夜明けはやって来ると、「光あれ」と言われた創造主なる神の力を信じて、夜明けの時に向かって、夜の闇の中を生きて行く力の源である神の言葉が、今、夜の闇の中にいるアブラムに与えられています。神が契約された言葉が、夜の暗黒の中にいるアブラムに与えられています。神の言葉は夜の闇の中を生きて行くアブラムの希望の光となります。

 私たちの一切の思いを遥かに高く、遥かに遠く、また遥かに深く超えている神の御心は私たちが意識する以前から、いや、私たちがこの世に誕生する以前から私たちを捉え、神御自身の創造の業の御計画の中で、生かしておられます。

 

先週(9/6)礼拝説教片々

「救い主の言葉」

  マタイによる福音書5章1~12節

 

 マタイによる福音書5章1節から7章の終わりまで3章にわたって伝えられているイエスの教えの言葉は「山上の説教」としてよく知られています。

 イエスを通して神の救いの業が行われるところでは、イエスの言葉は神の言葉となります。罪の結果の死に勝利している十字架の死と復活の命である私たちの救い主イエス・キリストの言葉となります。十字架の死と復活の命である私たちの救い主イエス・キリストの救いの中で、死に至る他はない自分自身の罪深さを知る人間は幸いです。何故なら自分の絶望である死が、主の愛の御手の中に救い取られている恵みを知るからです。生きることは絶望でしかない、死ぬ他はない、そんな罪人がイエスの所へ導かれてやって来ます。そして、イエスによって癒されていきます。イエスによって癒された罪人はイエスに従って喜んで自分自身の人生を生きて行く幸いな者となります。イエスを通して、神がこの自分の絶望的な生を贖い、神御自身の命を惜しみなく与え、生かして下さっている恵みを知る幸いな者となります。

 もはや生きているのは自分ではなく、復活のキリストです。この自分を生かしている神の命に生かされて生きている自分自身を知る幸いな者となります。イエスを通して神が語られている命の言葉を聞く幸いな者となります。救い主の言葉は救いに与った者の命を決して見放さず、常に神の国へと導く赦された罪人の生きる命の灯です。

 

 

先週(8/30)礼拝説教片々

「真の命の道であるこの方」

  ヨハネによる福音書14章1~14節

 

 「わたしは道である」と主イエス・キリストは御自分の愛する弟子たちに御自身を示されました。道とは何でしょうか。一筋の道と一つの場所とは何が違うのでしょうか。一筋の道を歩んで行く人と一つの場所に居る人とは生きることにおいて何が違うのでしょうか。

 道は今自分が居る場所から自分の目指す目的地に向かって自ら歩み出す時、自分の道が現れて来ます。道は自分の目指す目的地に向かって歩んでいる人の前に現れて来ます。「わたしについて来なさい」と自分を招く主の声と共に現れて来ます。今自分が居るこの場所と自分が目指しているあの場所を確かに繋いでいる一筋の道が、自分が歩むという自分の生きる行動の中から現れて来ます。「わたしは道である」と言われる主イエスの復活の命が、自分が生きる命の中から現れて来ます。今自分が居る場所から動き出さず、そこに留まっている間は、自分の居る場所はそこにありますが、自分の歩む道はまだ現れていません。

 今、弟子たちに先立って天の父なる神のもとへ行こうとしている主イエスは地上に残していく弟子たちに向かって言います。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとへ行くことができない。」

 天と地を繋ぐ一筋の真の道が主イエス・キリストの命を通して主の弟子たちの前に現れ出ようとしています。主の弟子たちが歩んで行く真の命の道として現れ出ようとしています

 

 

先週(8/23)礼拝説教片々

「キリストの僕」

ガラテヤの信徒への手紙 1章6~⒑節

 

 「キリストの恵みへ招いて下さった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることにわたしはあきれ果てています」とパウロはガラテヤの信徒に語りかけています。パウロが去った後にやって来た別の使徒たちは異邦人が救われるためにはキリストの福音を信じるだけでは不十分であり、信仰に加えて律法を遵守することが救いにとって必要であると、特に割礼を受けることが必要であると、「ほかの福音」を主張しました。

 ユダヤ人でありながら自分はユダヤ人であるという自分自身の特権意識や優越感といった自分自身の思いのすべてが圧倒されてしまう程に、人間を救おうとする神に捉えられ、愛され、全く新たに力強く生かされていった一人の人間はパウロでした。人間のあらゆる思いを遥かに大きく超えて、生き生きと自由に活動を続けている神の愛に捉えられたパウロはその時までの自分の思いに基づいた生き方から解放されました。ただ、神に愛されて生きるのみのパウロ、キリストの僕となりました。

 

 

先週(8/16)礼拝説教片々

「だからあなたが大切なんだ」 

    ヨハネの手紙Ⅰ 5章1~5節

友野富美子牧師

神さまから生まれた者たちは、神さまを愛します。神さまを愛する、とは「私の思い」を満たすことではなく、「神さまのみ心を満たしたい」と願うことです。み心は「掟」に明らかにされています。神を愛し、自分を愛するように隣人を愛することです。愛も信仰もない私たちに、聖書は「愛することは難しいことではない、無理に負わされた重荷ではない」と告げます。私たちはそれに信頼して、臆せず「愛そう」と一歩を踏み出せます。

さらに聖書は、「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つ」と言います。「イエスをメシアと信じる」私たちが「世に勝って生きる」とは、「世のただ中で、神の国を生きていく」ことです。神の掟、「愛する」ということをもって。「世に勝つ」とは「今の世を超えていく」こと、「今の世界よりもさらによい世界をつくっていくこと」です。

片手で繁栄や豊かさを握ったまま、片手で神さまを求め、さらに隣人のことを考え、コロナを終息させる。それは無理です。そのような生き方を神さまは善しとされるでしょうか。小さく、弱い立場に置かれている人たちにイエスさまが目を向けられたことを忘れてはなりません。私たちは皆、神さまの子どもたちです。だから大切なのです。あなたも、私も、みんな。人と人とが大切にし合い、誰もが不安なくいきいきと生きていける世界へ。イエスをメシアと信じる人たちが、まずこのことを自分の持ち場で考え、祈り、行動することが求められます。そのとき、私たちは世に勝つのではないでしょうか。

 

 

先週(8/9)礼拝説教片々

「信じて生きる」

    創世記 15章1~6節

 

 「これらのことの後で」という言葉で今日の私たちの聖書の言葉が始まります。この時に至って、ついにアブラムは神に向かって問いかけます。この時までアブラムは神に向かって問うことはありませんでした。黙って神に従って来ました。この時に至って、美しい真実に満ちた天におられる神と地上を生きるアブラムとの対話が交わされます。

 天におられる神が地上を生きるアブラムの命を捉えています。御手の内においています。神の大いなるご計画の中で自ら生きて行く生涯のその時、その時、神はアブラムに語りかけます。アブラムはその時、その時、自分が確かに聞いた神の声に従い地上での自分の人生の歩みを前へ、前へ、進めて行きます。生きて行くアブラムに起きて来るすべての出来事は神が中心に立ち、先立って行動している神が導いている世界の出来事です。神の世界の出来事です。アブラムはこの地上を生きる人間でありながら神の世界の中で生きています。

聖書は神の物語の中に記されてあるアブラム、後のアブラハムの物語を読者である私たちに語っています。地上を生きる人間が天の神を信じて生きるとはどのように生きることなのでしょうか。神が全てをなさって、人間は神に全てを委ねて、力の限り、命の限り、精一杯生きる、神のなさる業に参与していく、これが神を信じて生きる人間の純粋な姿ではないでしょうか。この姿を神に対する人間の正しい関係であると、「義」であると神御自身が認められたと聖書は読者である私たちに語っています。

 

 

先週(8/2)礼拝説教片々

「主にある交わりの輪」

 マタイによる福音書 4章23~25節

 

 真の救い主であるイエス・キリストが天の父なる神のもとから私たちが生きるこの地上にやって来られました。驚くべきこの神の恵みに触れることが赦された人は誰なのでしょうか。そして、その後の自分の人生をどのように生きて行くのでしょうか。

 主イエス御自身が神の国の福音を宣べ伝える所では主イエスの十字架の救いの力が発揮されていきます。ここガリラヤで、今、発揮された主イエスの十字架の救いの力とは、一体どんな力だったのでしょうか。その力とは民衆のありとあらゆる病気や患いを癒された力でした。生きる苦しみに圧し潰されそうになっている人の所に主イエスの十字架の救いは力強く届きました。まさに「死の陰の地に住む者に光が差し込んだ」の言葉が主イエスの十字架の救いを通して実現しています。

 何故こんな苦しみを背負わなければならないのか、という私たち人間の究極の問いは神への問いとなります。私たちの問いは神に聞き届けられるのでしょうか。私たちは待つのみです。そして、今、神は答えて下さっています。主イエスの十字架の救いの中から答えて下さっています。私たちに赦されていることは、いや、求められていることは全てを神に委ねつつ適切な治療を受けながら、本人も周囲の人たちも共に回復を祈り求め、生きるということです。その時、そこにはもはや偏見や差別、排除という人間の論理はありません。あるのは主の救いを信じて祈り求めて生きる人々の交わりの輪です。

先週(7/26)礼拝説教片々

「主の声」

ヨハネによる福音書 15章1~10節

 

 この地上にやって来られた主イエスが愛する弟子たちに先立って一足先に天の父なる神のもとへ帰って行く時に後に残して行く弟子たちに語った言葉があります。その言葉は「わたしにつながっていなさい」という言葉です。主イエスのこの言葉は弟子たちに別れを告げる言葉であると同時に新しい出会いを約束する言葉でもあります。

 現在訪れつつある死による主イエスとの別れの時は同時に近づいて来ている未来の復活の主イエスとの出会いの時を内に含んでいます。未来の出会いの時が現在の別れの時を前に進めています。現在の出来事と未来の出来事が別々の出来事ではなくなります。つながっている一つの出来事となります。主イエスの死ぬ時と主イエスの復活の時とを切り離すことなく一つにつないで生かしている聖霊の永遠の命の力が生み出している神の創造の世界がこの言葉の中から現れて来ます。

 神の永遠の愛が主イエスの全生涯を通してこの地上に生きる弟子たちの目に見えてきます。その時から、主の弟子たちが聖霊の愛の活動につながり、主イエスの命と一つにつながって自ら進んで愛に生きる時が始まります。その時の訪れのために、今、弟子たちのもとから去って行く主イエスは弟子たちに別れの言葉を残して行きます。その主イエスの別れの言葉は同時に主イエスの再会の言葉となります。弟子たちは主の一つの声を聞き二つの意味を知ります。

 

 

先週(7/19)礼拝説教片々

「光射す方向へ」

 ガラテヤの信徒への手紙1章1~5節

 

 パウロの信仰の熱心、パウロが信仰に生きた燃える炎のような情熱の源は何なのでしょうか。何がパウロを熱心なユダヤ教徒から熱心なキリスト教徒へと導き出していったのでしょうか。

神はパウロを律法の義の限界と向き合わせました。律法の義とは、自分の行った行為の正しさに基づいて神がよしとする信仰と言うことができます。だから律法の義とは人間の力に依存している信仰と言うことができます。そしてこの信仰には人間の死という限界があります。神からよしとされているこの自分も神から罪ありとされているあの異端者も神の前に生きる一人の罪ある人間として同じように死んで行くのです。しかも、パウロが滅ぼそうとして迫害してきた異端者は自分の死によっても滅ばされない復活信仰に生きています。自分が死んでもなお、神に近づいて行く信仰の道は律法の義に生きるパウロにはありませんでした。

 パウロの信仰に生きる熱心をその限界にまで導き人間の力の限界を教えた神は、同時に人間の力の限界のその先に続いている神の力が漲る聖霊の世界をパウロに示しました。神はパウロを死んで復活されている救い主キリストと出会う恵みの時の中へと導き入れました。復活の命の恵みに生かされて生きる信仰の道をパウロの目の前に現しました。古いパウロは死に、主の復活の命に生かされて新たに生きる恵みの時が神からパウロにもたらされました。この喜びが溢れ出ているのが今日の聖書の箇所です。

 

 

先週(7月12日)説教片々

                   「孤独の闇の中から」                  稲垣千世牧師

                                   創世記 12章1~4節

 

 アブラハムが自らの意志で自分自身の人生を歩み出した時はどんな時だったでしょうか。その時は神が直接アブラハムに呼び掛けた時でした。またその時はアブラハムが直接、神が自分に呼び掛けて来る声を聞いた時でした。まさにその時は、アブラハムに発せられた生ける神の声が、天におられる神と地上にいるアブラ                                                                                                                                                         を繋いだ時でした。神は語り、神の言葉を聞いたアブラハムは神の言葉に従いました。神は語り、語られた神の言葉は、神の言葉に聞き従って生きる人間の歩みを通してこの地上に実現して行きます。アブラハムはその始まりの人間です。血肉の父に導かれて生きる時が終わり、天の父に導かれて生きる時が始まりました。

神が言われる「わたしが示す地」はアブラハムにとって全く未知の土地です。未知なる世界へ向かって新たな一歩を踏み出して行く勇気と力はアブラハムの一体どこから生まれて来るのでしょうか。それは「あなたは生まれ故郷父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい」と自分に向かって言われた神の声をアブラハムが聞いた、という出来事から新しく生まれてきます。神の声を聞いた者は、神の声の命の力によって生かされて生きる者となって行きます。生ける神の声を聞き、生ける神の声に導かれて、アブラハムは生き始めました。声となった神の息がアブラハムに吹き入れられ、アブラハムは生きる者とされました。私たちの信仰の父であるアブラハムを、今、生きる者としている神の命の息の導き、聖霊の働きがここに現れています。

 

 

礼拝(7/5)礼拝 説教片々

                           

                                                「新しい出発」                                             稲垣千世牧師

                                                                 

                                                                                       マタイによる福音書 4章18~22節

 

 イエスが歩いておられたのはガリラヤ湖のほとりでした。異邦人のガリラヤと言われ差別されていた辺境の地でした。この地で生きていくため日々の糧を得る厳しい労働の漁師の仕事を背負っている命を見つめられるイエスは近づいて行かれました。今、自分に近づいて来る主の声を聞く者は主の愛の眼差しに応えて生きる命となって行きます。

 何のために労苦して生き死んで行くのか、と自分の命の意味を神に問いつつ、自分の命の創り主である神を見つめ、労苦に満ちたこの地上での自分の人生を生きている人間に、神は今、御自分の愛する独り子の生きる姿と死んで行く姿を通して答えられています。復活の命を輝かせておられます。イエス・キリストの十字架の死と復活を通して答えられています。「何のために生きるのか」と神に問い神を見つめて生きる人間と「愛するために生きるのだ」と答え続けている神が、今、イエス・キリストの十字架を通して一つに繋がっています。ここに私たちの生きる希望の光が輝いています。

 主の招く声に導かれて新しい人生を歩み始めた主の弟子はこの時無言です。黙って主の後について行きます。この沈黙が十字架の救いに至るまでの労苦に満ちた弟子たちの人生を物語っています。今はもう、全てが愛され癒されています。主に愛されている今は、互いに愛について論じ合う時ではなく、互いに愛に生きる時です。

 

合同礼拝(3/22) 説教片々

   

      「日々新たに」    

          Ⅱコリント書4章16~18節

 

  私達にとって目に見えるものはとても大切です。

しかしそれにだけ頼って生きているとそれが突然消え去った時、行き詰って希望が見えなくなります。なぜなら私達は本来見えない神によって造られた者だからです。私達の本当の力は見えない、しかし永遠に存続する神から来るのです。パウロは、「だから私達は落胆しません」と言います。彼は自分の人生に何が起ころうと落胆しないと言うのです。その理由は、「たとえ外なる人は衰えてゆくとしても、内なる人は日々新たにされてゆく」からです。

 私達も「外なる人が衰えてゆく」ことを年と共に実感します。しかし彼の言うのは単に老化のことではありません。かつて彼がキリスト教の迫害者であった時、復活の主と出会い、目が見えなくなると共に、自分のしてきたことが恐ろしい罪であることを知りました。その時、すべての自信や誇りを失った彼は、「古い自分に死んだ」のです。これが、「外なる人は衰える」ということです。しかし3日目にアナニアという人を通してイエスの十字架の赦しを信じるように推められ、彼は即座にこれを信じました。その時目からウロコのようなものが落ち、同時に聖霊に満たされ生まれ変わったのです。これが「内なる人は日々新たにされる」ということです。その後彼は艱難に合う度にすべてを主にゆだねて「古い自分に死ぬ」のです。そしてその度ごとに救われるという恵みを経験しました。私達も「外なる人が衰える」ということを経験する度に、「内なる人は日々新た」という人生に招かれているのです。

 

 

礼拝(3/15) 説教片々

   

     「土の器の中の宝」    Ⅱコリント書4章1~11節

 
 パウロは、「教会は土の器だ」と言います。土の器とは素焼の陶器のことです。この時代一番高価なものは金の器、銀の器です。それに比べたら土の器など一番価値のないものです。すぐに欠けて壊れてしまい、何より罪ある存在にすぎません。私達はこのことを決して忘れてはなりません。なぜならば教会の力は、この土の器の中に納められた宝にあるからです。この宝とは、「闇から光が輝き出よ」と命じられた神ご自身です。即ち天地創造の時、無から有を生み出し、死から命を生み出した神ご自身です。でも本来、罪だらけの土の器のような私達の中に聖なる神をお入れすることはできません。入れたとたん土の器は細々に砕け散るのです。ところが神はご自分が罪ある人間の中に入るために、ご自分のみ子を十字架にかけました。パウロは「私達はイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために」と言います。土の器である私達がイエスの死をこの身にまとう時、「土の器」は「聖なる器」に変えられ、その中に聖なる神が来て下さるのです。何という恵みでしょうか。こうして私達の上にイエスの復活の命が現れます。教会はこの世にあってどんなに苦しめられても、途方に暮れても、虐げられても、打ち倒されても滅ぼされません。むしろそのことによって、神の力がいかに偉大なものであるかを証し続けてきました。そしてこれからも証し続けてゆくのです。

 

礼拝(3/8) 説教片々


  「キリストからの手紙」 Ⅱコリント書3章1~11節

 

パウロは律法を重んじる人々から、「どこの教会からも使徒達からも推薦状をもらっていない」と批難されました。それに対して彼は、「私は人に書いてもらった推薦状はいらない。私はキリストから書いてもらった推薦状がある。それがこのコリント教会だ。教会はキリストからの推薦状、キリストからの手紙だ」と言うのです。彼は自分を批判する人々に対して自信満々な態度を取っているように見えますが、同時に言います。「独りで何かができるなどという資格が自分にあるということではありません。私達の資格は神から与えられたものです」。即ち彼は神から与えられた信仰と、ありのままの自分の力で伝道しているのです。
かつてのパウロは律法第一で生きていました。しかしその彼が復活のイエスと出会い、律法では人は救われないことを知りました。その挫折から福音によって救われたのです。コリント教会は深い挫折から立ち上がったパウロの信仰を受け継ぎました。教会は最初から完成されたものではありません。彼らはパウロからの何通もの手紙を通して福音の本質を知ったのです。「教会の中心は人間ではなく、神である。人間が独りで何かができると思い上がってはならない。神の霊こそが教会の一人一人に働いて教会を建てるという大いなるみ業を成して下さる。ゆえに教会はどんなに小さく弱くとも、神の永遠に続く栄光に包まれている」。私達一人一人は、このことをこの世に伝えるためにキリストの霊によって書かれた手紙なのです。

礼拝(3/1) 説教片々

   

  「キリストの香」           Ⅱコリント書 2章12~17節

  パウロは弟子テトスから、コリント教会の皆なが悔い改め教会が再生したという吉報を受け取りました。このような時は伝道者にとって喜びの時であると同時に要注意の時でもあります。つい「自分の力でやった」と言いたくなるからです。でもパウロは、「私達はキリストによって神に献げられる良い香りです」と言います。香りは目に見えません。パウロは自分の姿を人の前に第一に見せません。なぜなら教会の中心は常に神だからです。パウロはこの喜ばしい出来事を「キリストの勝利の行進だ」と言って、キリストが先頭を歩き自分はそのあとに従う者としています。このように教会が神を第一とする時、神は私達と共にいて下さり私達に力を与えて下さるのです。もちろんパウロも教会のために多くの苦労と努力をしました。でも問題の真の解決者は神なのです。

ただし香りというのは、光や音と違って一瞬で消えません。その人が去った後も香りが残ります。パウロはキリスト者一人一人がキリストの香りを放つと言っています。私達が放つのはキリストを伝える知識の香りです。それは信じる者には命から命へ至らせる香りであり、滅びる者には、死から死へ至らせる香りです。この香りはどんな所でも放たれます。自分にとって悪いと思われる場所でも、私達の愚かさと弱さを通して現れます。神は私達をこのように用いてくださるのです。

 

先週礼拝(2/23) 説教片々
  
   「人を愛する涙」    山田恵子牧師

    Ⅱコリント書1章23節~2章11節 
          
  パウロはいくら手紙を書いても彼に従わないコリント教会を心配して、弟子に一通の手紙を託して様子を見に行かせました。それが、あふれる程の愛をもって涙を流しながら書いた「涙の手紙」です。うれしいことに、この時、教会の人々の心にパウロの愛が届き、多くの人々が悔い改めました。しかし中に悔い改めない人がいたのです。すると教会の人々は立ち上がってこの人を罰し、内部改革をしました。この知らせを受けたパウロは喜ぶと同時にこう言います。「その人には多数の者から受けたあの罰で十分です。罰した後は、その人を赦して力づけるべきです。ぜひともその人を愛するように」。これは現代に至るまで教会の大切な指針になっています。
 正義の名で人を審いた時、審いて終わりではまだ不十分です。その人を赦すことまでしなければ正義は完成しません。もし人を赦さなければ、「サタンにつけこまれる」とパウロは警告しています。人を赦さない心の中にサタンが住みつくからです。人を永遠に罰する権限は教会にもだれにもありません。それができるのは神のみですが、神も人が滅びることより立ち帰ることを望まれるのです。だからこそイエスは主の祈りの中で、「私達の罪をお赦し下さい。私達も人を赦します」と祈るように教えられました。これだけが私達の心の中からサタンを追い出す方法なのです。「人を赦すこと」これこそが私達の信仰の最終目標なのです。

 

礼拝(2/16) 説教片々
   
    「苦難と慰め」    山田恵子牧師
        Ⅱコリント書1章3~11節

 

 この冒頭には「苦難」と「慰め」という言葉が多く出てきます。確かに神を信じていても私達は多くの苦難と出会います。しかしパウロは私達が出会う「苦難」より、神から来る「慰め」の方が遥に多いと言います。彼はこのことを経験しました。かつて彼は仲間と共にひどく圧迫され、生きる望みを失い「死の宣告」を受けた思いでした。でも彼らはここで終わらず、自分を頼りにすることなく、死者を復活させて下さる神を頼りにするようになったのです。復活信仰に至る道はとても不思議です。パウロ達が復活の神の力を信じるに至ったのは、激しい苦難の中で自分を頼れなくなった時です。その時彼らは、キリストの苦しみが満ちあふれて自分に及んでいることに気付きました。自分の苦しみを通じて、キリストの苦しみと繋がった時初めて復活の力を持つ神、無から有を生み出す神に助けを求めて祈りました。すると神は、大きな死の危険から彼らを救われたのです。
復活の神というのは、私達が死んでから復活の命を与えて下さる方に止まらず、この世で死の淵であえぐ私達をも救い出して下さるお方です。パウロが手紙の中で何度もくり返す「慰め」というのは、私達がよく言う「悲しむ人苦しむ人のそばにいてやさしく慰めてあげる」という小さな意味でなく、「死の危険の中から人を救い出す」という大いなる力なのです。教会の一人一人が、パウロと同じ復活信仰に立つ時、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることが出来るのです。

先週礼拝(2/9) 説教片々
  
   「小さな始まり」    稲垣千世牧師

    招詞:詩編118:23~24
    聖書:ルカによる福音書13章10~21節
       
 イエスを通してあらわれてくる神の国は、今はまだ小さな始まりにすぎませんが、しかし、やがて大きく発展し成長していきます。庭にまかれた小さな一粒のからし種が芽を出して大きく成長しやがて鳥が巣を作るほどになるように、ほんの少しのパン種がパン粉全体を膨らますように、これが神の国のあらわれ方なのだ、とイエスは言います。小さなからし種やほんの少しのパン種が約束されている自分自身の大きな未来に向かって今の小さな自分自身を精一杯活動させるように、あなた方も約束されている神の国に向かって今の限りある自分自身の小さな命を精一杯生きなさい、私があなたと共にいるのだから、神はあなたと共に生きているのだから、とイエスは私たちに熱く語りかけています。希望を持ち続けなさい、諦めてはいけない、あなたは今始まったばかりの神の国の小さな出来事に私と共に参与しているのだから、とイエスは私たちに熱く語りかけています。
サタンに縛られていた名もない一人のこの女性は安息日に会堂の中でイエスと出会いサタンの支配から解放されました。この出来事は大勢の人々に起こった全地を揺るがす大事件というものではありません。ささやかな出来事です。しかし、イエスを通して確かに行われたこの小さな出来事の中から私たちが生きるこの地上における神の国の始まりが確かにあらわれています。

 

先週礼拝(2/2) 説教片々
  
   「愛をもって行う」    
      Ⅰコリント書16章1~14節 
 
 パウロはコリント教会への手紙の最後でエルサレム教会への募金を呼びかけています。今エルサレム教会のユダヤ人は激しい迫害に会い苦しんでいます。それを知ったパウロは異邦人教会に募金を呼びかけました。現代でもこのような募金活動が行われています。しかし当時と現代とでは大きな違いがあります。それは当時の人々が「もうすぐ終末が来る」という不安と恐れから自分の事で精一杯で、他人の苦しみを思いやる気持ちなどなかったということです。もちろんパウロも終末が近いと信じていました。しかし彼はあす終末が来ても、今日苦しんでいる人がいたら助けるような人でした。なぜなら十字架のイエスが最後の最後まで罪と弱さの中にある人々と共におられたからです。ゴルゴダの三本の十字架にかけられたのがイエスと二人の犯罪人であったことがそのしるしです。教会は最後まで弱い人々と共におられたイエスと同じ所に立ち続け、愛の業に励むのです。パウロは、「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい」(15:58)と教えるのです。
 そして最後にこの手紙のまとめとして4つのことをあげます。①「目をさましていなさい」信仰者は眠っていてはなりません。信仰の目が開かれる時見えなかった物が見えてきます。②「信仰に基づいてしっかり立ちなさい」。③「雄々しく、強く生きなさい」。④「何事も愛をもって行いなさい」。これら4つがパウロが一番大切にしていることです。その中でも一番大切なものは愛です。

礼拝(1/26) 説教片々

   

   「最後の勝利」    

      Ⅰコリント書15章50~58節  

 

 当時教会の中に、復活と蘇生を混同している人々がいました。パウロは彼らに両者の違いを説明します。蘇生はその前と後では肉体に何の変化もありません。しかし復活は一度死んで古い体から完全にたち切られ、全く新しい体にされるのです。古い体のままでは神の国に入れません。まさに、「死は復活のための死」なのです。

 ではなぜ神はこのようなことをなさるのでしょうか。それは死に勝利することなしには全能の神たりえないからです。私達人間にはアダムの罪以来、「死のとげ」がささっています。このすべてを滅びに飲み込んでゆく死の力のすさまじさに、人間はただおびえるだけです。しかし神はそんな人間に救いの道を開いて下さいました。自分で自分を何とかすることをやめ、ただ神に立ち帰りキリストの十字架の救いを信じるだけで、この「死のとげ」が抜けるのです。人間は全く新しい二度と朽ちることのない復活の体に変えられるのです。このことによって、「死は勝利にのみこまれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」という預言者を通じて語られた神の勝利が成就されたのです。この神の死への勝利が人間の復活という形となって現れたのです。私達は神にただ感謝するのみです。パウロは最後に言います。「動かされずにしっかり立ち、主の業に励みなさい。主に結ばれているならば自分達の苦労が決して無駄にならないことを、あなた方は知っているはずです。」

 

礼拝(1/19)説教片々

 

   「復活の体」    

       Ⅰコリント書 15章35~49節

 

  コリント教会に「霊魂不滅」を主張する人々がいました。彼らは体が死んだ時、魂は肉体から解放されると考えていました。彼らにとって肉体は魂の牢獄なのです。ゆえに彼らは、せっかく自由になった魂が再び肉体に閉じ込められる復活などいらないと言うのです。これに対するパウロの答は、「愚か者!」です。
彼らは人間に肉体を与えたのが神であることを忘れています。神は人間の魂と肉体を一体のものとして造られました。何より神は「肉体」を持った人間を愛され、み子を「肉体」を持った人間としてこの世に送り、その「肉体」の死をもって罪人を赦されたのです。そしてそのキリストを信じる者に復活の体を約束されました。肉体が何の役にも立たないものであるはずがありません。
パウロは「復活の体とは、この地上の体とは違った輝きがある」と言います。復活は種まきに似ています。種の時とまかれて成長した時とではその姿は似ても似つかないものです。「まかれた時」というのは、「死んだ時」です。死んだ時朽ちるものでも、復活の時は朽ちないものとなり、卑しいものでも輝かしいものとなり、弱い者でも力強い者となるのです。そのように自然の体が死ぬと、霊の体になるのです。私達は本来アダムの似姿になっています。土からできた罪多き弱い者です。しかしキリストを信じた時から、キリストに似るものとされるのです。キリストが最後まで力の限り生きたように私達も最後まで力の限りに生き、キリストが復活したように私達も復活するのです。

 

新年合同礼拝(1/12)説教片々

 

   「復活の初穂」    

       Ⅰコリント書 15章20~28節

 

 キリスト教の中心は十字架と復活です。でもコリント教会の中には、「自分達は洗礼と同時に聖霊を受けて復活する」と言って、死からの復活を否定する人々がいました。彼らは十字架と復活の理解が誤っているのです。パウロは順序立てて説明します。「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人々の初穂となられました」。ここで彼は初穂としてのキリストの復活というのは、キリスト一人が死者の中から復活したのではなく、キリスト者全体が死人の中から復活することの代表なんだと言います。また彼は死人の復活には順序があると言います。最初にキリスト、次いでキリストが来られる時に、キリストに属する者が復活し、次いで世の終わりが来ます。パウロはこうして死人の復活などないという人々の誤解を解きます。
 ただし問題は、「終末が来る」ことです。その不安から人々はいろんなことを言い出すのです。しかしパウロは、イエス・キリストを通して与えられた、「十字架と復活の出来事」に信頼していれば何も恐ろしいことはないと言います。アダムを通してこの世に入り込んだ罪と死を、第2のアダムであるイエス・キリストが十字架を通して赦し、更には復活によって永遠の命を約束して下さいました。また復活は個人の救いだけでなく、宇宙的規模の救いに至ることをパウロは教えています。私達の現実は先行き不透明に思えますが、神がご計画された永遠の神の国への約束は着々と完成に向かっているのです。何よりイエスの復活はすでに起こったのです。

 

新年合同礼拝(1/5)説教片々


   「イエスは救い」    竹田伸一牧師
       ヨハネによる福音書3章6~18節

 

クイズ:①元日と元旦の違いは何?答:元旦は元日の朝。②クリスマスを祝う夜の礼拝はいつ?答:12月24日。(かつて、1日は日没から始まり、クリスマスイブはクリスマスの夜の意味。)③1月6日の公現日は何を記念する?答:博士たちの来訪、異邦人へのキリストの顕現。
 人間は罪人です。それは、自分自身を第一に、すなわち神とすることです。その人間が悔改めてイエス・キリストを信じることができたならば、これは奇跡中の奇跡です。もし、あなたがイエス・キリストを信じることができたなら、それはあなたの心にキリストが誕生するクリスマスと言えるでしょう。
教会に幼い頃から行っていた竹田伸一、広志、正夫は年の近い従兄弟のやんちゃな少年たちで、幼い頃はザリガニ取りでずぶ濡れになったり、中学生の頃は教会の修養会を抜け出して、真っ暗な森で迷ったりました。正夫君は17才の時に交通事故で亡くなりますが、死の直前に病院でイエス・キリストを信じてクリスチャンになりました。その後、伸一はキリスト教学校の牧師に、広志君は教会の牧師になりました。
 ヨハネ福音書ではこの世(私たち)は闇で、病気や飢え、家族の死など、絶望的な問題に苦しんでいます。そこに「わたしは、命のパン、世の光、良い羊飼い、復活、命、道、真理、まことのぶどうの木、である」と語るイエス・キリストが来られるとき、しるし(奇跡)が起こります。キリストはトマスに「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語られました。私たちも信じる者になりましょう。

礼拝(12/29)説教片々    

   

  「すべての人のための光」    

     ルカによる福音書2章22~35節

 

 ヨセフとマリアはイエスの初子奉献のために神殿にやってきます。そこでシメオンという老人と出会います。彼は信仰篤く、「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」とのお告げを受けていました。シメオンは救い主と出会うためだけに生きてきました。では救い主と出会えない人生とはどのようなものでしょう。それがイエスと出会う前のシメオンの姿です。シメオンは確かに長生きでした。しかし長生きすればそれだけ苦しみ悩みも増えます。当時ローマ帝国に支配されていたユダヤの国は重税に苦しみました。しかしユダヤの支配者はローマ帝国に取り入ろうとし、宗教者も神の名を利用して自分の利益しか考えません。信仰深いシメオンがこの国の先行きをどれだけ心配したかしれません。神を信じていても救いが形となって見えないのです。このままで行ったら彼の人生は尻切れトンボです。

 しかしある日ついにシメオンはメシアと出会います。シメオンは神殿でイエスを見た時「この赤ん坊こそ、私の待ちわびた救い主だ」とわかったのです。彼はイエスを抱いて神を賛美します。「ついに救い主が来られた。私が今までかかえていた心配も不安も、ただこの赤ん坊が親の腕の中で安心してまどろむように安心してこの方におまかせすればいいんだ」。彼は人生の最後に信仰にとって一番大切な奥義を知りました。「人は救い主に出会い、すべてをゆだねた時、神の国に入れられる」のです。

 

先週 クリスマス礼拝(12/22) 説教片々    
   
   「羊飼いのクリスマス」    
       ルカによる福音書2章8~17節
 
 この世に神の子が誕生したというすばらしいニュースを最初に聞いたのは、野原で昼も夜も羊の番をしていた羊飼いでした。この時国内では住民登録が行われていましたが、彼らは行かなくていいのです。彼らは国民の数の中に入っていなかったからです。なぜならユダヤ人は、安息日を守らない、いや羊のために守れない羊飼いをこの国で一番低い者と見なし蔑んだからです。ところがそんな彼らの所へ天使がやってきて言いました。「恐れるな、私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった」。彼らはこの言葉に恐れを覚えます。何しろ今までだれからも国民扱いされて来なかった彼らを天使が国民と呼びかけたからです。人間は様々な理由で人を差別します。でも神様は、その国できらわれ片隅で生きる人をも含めて、初めて民全体となると考えておられるのです。だからこそ一番に羊飼いに救い主誕生を伝えたのです。そして彼らに救い主に会うため家畜小屋へ行けと命じます。そこは羊飼いの行きやすい、羊と同じ臭いのする場所です。神は羊飼いの行きやすい所に救い主を置かれました。マリアが家畜小屋で出産した理由がここにあります。今この世で救い主と出会える家畜小屋、それが教会です。教会はどんな人でも出入りでき、そこで自分の苦しみ、悩み、弱さ、罪そんなものを本音で語り合い、互いに受け入れ赦し合う所として神が建てて下さいました。そしてそのまん中に救い主がおられます。

 

礼拝(12/15)説教片々    
   
   「片隅に輝く光」    
       ルカによる福音書2章1~7節    
 
 皇帝からの住民登録の命令を受けて、ヨセフは妻マリアを連れてナザレの町からベツレヘムへと帰ります。それは身重のマリアにとっては危険な旅でした。やっと町に着いたヨセフはマリアを休ませようと宿屋を捜しますが、泊めてくれる所は一軒もありません。やっとヨセフが見つけてきたのが家畜小屋でした。ここでマリアはイエスを産み、飼い葉桶の中に寝かせます。「飼い葉桶」、それは当時のどんな貧しい家庭でもありえない程のみじめさを象徴する言葉です。まさに神の子は、この世の片隅に生まれたのです。そしてこれが神のご計画でした。神はわが子を生まれる時から死ぬ時に至るまで、一貫してこの世の一番下、この世の片隅に置かれました。その理由は「主の貧しさによって、あなた方が豊かになるためだったのです」(Ⅱコリント8:9)。神は私達を豊かにするために我が子を、二千年前に飼い葉桶の中に置き、そして今私達の罪だらけの貧しい心の中に置いて下さいました。
 神が私達にくださった豊かさとは、①自分では償い切れない罪の赦し、②私の内に満ちる神の愛、③永遠の命の約束。私達が自分の力では決して手に入れることのできないこのようなすばらしいものを、神はイエスの十字架を通して無償で私達にくださいました。「主の貧しさによって、私達が豊かにされた」ことを覚えてこのクリスマスを祝うと共に、「私達自身が貧しくなって、この世の片隅にいる人々を豊かにしていく」という歩みをさせていただきたいと願います。

 

 

礼拝(12/8)説教片々    

   

  「いと高き方の力に包まれて」    

        ルカによる福音書1章26~38節

 

 イエスの母マリアが天使から受胎告知を受けた時はまだ中学生位の年でした。ヨセフとの結婚を楽しみにしていた彼女がこれを聞いてどれだけ驚いたかしれません。この妊娠はマリアにとってヨセフとの結婚が解消され、悪くすれば姦淫の罪で死刑にされる恐れのあるものでした。マリアは天使に答えます。「そんなことはあってもらっては困ります。私には身に覚えがありません」。マリアはイエス・キリストの母だからといって最初から神の言葉に従順だったわけではないのです。彼女は神にハッキリ抗議します。

 ではマリアの妊娠はなかった方が良かったのでしょうか。いやこの神のみ子の誕生によってのみ、私達すべての罪人が救われるのです。神はご自分の計画のためにいつも思いがけない人を思いがけない方法で用いられるのです。人間から見るとそれは無駄であったりあって欲しくないものも、神は別の見方をされるのです。でも神はご自分の力を信じる者にはそれを乗り越える力を必ず与えて下さいます。天使はマリアに、「聖霊があなたに下りいと高き方の力があなたを包む」と言いました。マリアは決して一人ではありません。神の力がマリアに下り、マリアを包んで下さるのです。彼女はこの言葉を信じすべてを神にゆだねて答えます。「私は主のはしためです。お言葉通りこの身になりますように」。その結果、後に彼女自身が救われるのです。神にできないことは何一つなく、神に無駄なことは一つもないのです。

 

 

礼拝(12/1)説教片々    

   

  「子のない女に喜びを与える主」    

      ルカによる福音書1章5~20節 

 

 アドベントは「到着」という意味です。救い主はこの世に二度到着されます。一度目がクリスマスの時、二度目は最後の審判の時です。私達はこのアドベントの期間、救い主の第一の到着を覚えて「喜び」、第二の到着を覚えて「悔い改め」の時をすごします。今日のお話は年老いた夫婦の「喜び」と「悔い改め」の物語です。妻のエリサベトは不妊の女でした。当時不妊の女は神の祝福からもれた女として蔑まれていましたが、この不妊の女は同時に国を失い神の祝福からもれてしまったイスラエル民族を表しているのです。しかし彼らは、神が「子のない女に子を持つ母の喜びを与えて下さる」(詩113)ように自分達にも子供を与えて国を回復して下さると信じたのです。その彼らが待ち望んだ子供こそ救い主です。そしてついにこのことがクリスマスに実現しました。この不妊の女エリサベトに子供が与えられたということは彼女一人の「喜び」に止まらず、民族全体、全人類に救い主が与えられるという「喜び」に繋がっているのです。

 しかし夫ザカリアはこれを信じません。彼は子供を与えられるように長い間祈ってきましたが、祈りが聞かれるのは「神のみ心が行われる時である」ということを忘れてしまったのです。ですから自分の祈りが聞かれたとたんに怖じ惑い信じ切れずに口がきけなくなります。即ち神はザカリアに「今のあなたに言葉はいらない。ただ神の力が働くのを見て「喜び(・・)」を心で感じ、「悔い改め(・・・・)なさい(・・・)」と言われたのです。

 

収穫感謝日合同礼拝礼拝(11/24)説教片々    

   

  「ソロモンの知恵」    

         列王記上 3章5~9節

 

 ソロモン王が父ダビデからイスラエルの国を継いだ時、彼はまだ少年でした。彼は父から、「神の戒めを守りなさい。そうすれば神があなたを助けて下さる」と教えられました。ある日彼が寝ていると夢の中に神が現れて言いました。「ソロモンよ、何でも欲しいものを願いなさい。それを与えよう」。ソロモンは答えました。「私はまだ若くて何も知りません。私にこの国を正しく裁く知恵を与えて下さい」。これを聞いた神はとても喜んで言われました。「お前は良い願いをした。自分のためのお金や命や敵に勝つことを求めず、知恵を求めた。私はあなたに世界で一番賢い心を与え、あなたが求めなかったお金や命や栄光も与えよう」。この夢は現実となり、彼は天文学、物理学、数学、生物学、文学などあらゆる分野の知恵にたけた人となりました。また彼の言葉は「箴言」として旧約聖書の中に収められています。そして神は、これらの知恵に加えて「海辺の砂浜のように広い心」を彼に与えました。良い王様は賢いだけではなれません。人々の言葉に広く耳を傾けることが大切です。彼は神に与えられたすばらしい知恵と広い心によって民を正しく裁き、この国は平和な国になりました。

 私達も自分がしなければならない仕事のためにソロモンのように神に必要なものを求めましょう。ではまず私達にとって一番に必要なものは何でしょうか。ソロモンは箴言の中でこう言っています。「主を畏れることは知恵の初め」。(1:3)。まず神を敬い大切に生きることからすべてが始まるのです

 

先週礼拝(11/17)説教片々    

「キリストの復活」    

     Ⅰコリント書15章12~19節

 

 コリント教会の中に、「死者の復活などない」と言う人々が現れました。ただし彼らは現代人が考えるように、「死者の復活など生物学的にありえない」と主張しているのではありません。イエス・キリストの復活は認めますが、死者の復活を認めないのです。なぜなら当時教会に「グノーシス」という極端な終末論を語る人々がやってきて、「人は洗礼を受けた瞬間にこの世で完成した人間になれる。だから死後の復活も永遠の命もいらない」と言ったのです。更に彼らは生きたまま天国へ行ける恍惚体験を重視しました。このグノーシスに多くの人々が引きつけられました。

 しかしパウロは、「人がこの世で完成して天国へ行ける、復活は必要ない」と言う時、人は信仰の土台をすべて失うと警告します。神がイエス・キリストを十字架につけ復活させた目的は。イエスを信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためです。その永遠の命、復活はいらないということは、イエスの十字架も復活もいらないと言うのと同じです。即ちグノーシスの人々は、キリスト教信仰そのものを否定しているのです。結局彼らの自分のことしか考えていません。彼らが復活を否定することによって、キリストを信じて死んだ同信の友が滅びることになっても平気です。この世で自分の完成のみを願う時、人は自らを神としているのです。その時、人は愛を見失います。なぜなら真の愛の神を見失っているからです。

 

 

 

礼拝(11/10)説教片々    

   

  「パウロから受けた福音」    

      Ⅰコリント書15章1~11節

 

 パウロはコリント教会の人々に福音について教えます。なぜなら教会の人々が異なる教えに引っぱられて福音を忘れてしまったからです。パウロは、「どんな言葉で私が福音を告げ知らせたかしっかり覚えていれば、あなた方は救われます」と言います。パウロの伝えた福音とは、①キリストが私達の罪のために十字架で死んだこと、②墓に葬られたこと、③3日目に復活したことです。福音とは生前のイエスの言葉や行いではなく、ただイエス・キリストの死と復活に中心があるのです。ここにこそ神の救いのみ業が現わされたからです。ここで気付くのは、イエスの十字架と復活の間に一日の葬りの日があることです。キリストはこの一日、死の世界「陰府に下られた」のです。このことの意味はとても大切です。イエスは十字架で「神に見捨てられる」という一番つらい罰を受けたのです。それが一日墓に葬られた日なのです。イエスはその日、神に見捨てられるという絶望と無に服しました。しかし次の日、復活されます。この日神は死と無に勝利されたのです。この日神は復活を通して信じる者にご自分の本当の偉大さを示されました。神はこの世に存在するどんな絶望にも死にも無にも負けることがない、それらの暗闇の力を突き破り最後に勝利する方であり、その力を信じる者にもこの勝利の力を与えて下さるのです。それがパウロの人生です。キリストを迫害する者が、この福音によって救われてキリストの伝道者とされました。「これはただ私と共にある

神の恵みです」と彼は告白しています。

 

 

礼拝(11/3)説教片々    

   

 「愛」    

    Ⅰコリント書 12章31~13章13節

 

 コリント書13章は、愛についての有名な箇所です。でもパウロはここで一般の人に愛について語っているのではなく、熱狂的に聖霊の力を求めているコリント教会の人々に語っています。異言や預言や神についての知識を得られることは、信仰者にとって魅力です。しかし教会の人々は、神がその力を与えて下さったのは、その力を持ってキリストの体である教会を建てるため、全体に奉仕するためであることを忘れ、ただの自己満足と優越感にひたっていたのです。パウロはそんな教会に対して、「あなた方は騒がしいどら、やかましいシンバルだ。愛がない所で何をしても無に等しく、何の益もない」ときびしいのです。

彼らが今求めている賜物は、終末が来たら廃れてしまうものにすぎません。パウロは、「それよりもいつまでも残る賜物を求めよ。それは信仰と希望と愛だ。その中で最も大いなるものは愛である」と彼らに愛を追い求めるよう勧めます。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない」。この愛はまさにイエス・キリストご自身です。私達が良い時だけでなく、愛をなくし罪を犯し神から離れても、この方の愛が私達から離れることはありません。パウロは、「まずこの尽きない主の愛を求めなさい」と言うのです。その時私達は少しずつ愛の人に変えられてゆくのです。 

礼拝(10/27)説教片々    

   

 「それでもなお人を愛しなさい」    

      マタイ福音書 5章1~12節

             桒原道子神学生

 

 貧しくその日一日生きるのが難しく迫害にも遭っていた人々にとってイエスが「幸いなるかな」と語りかけるこの聖句はどれだけ生きる力になったことだろう。イエスは、旧約の律法を守れば自分たちの力で救われるという間違った律法解釈をした時代に、神に遣わされ、「律法や預言者を廃止するためではなく完成するために来た」と言われた。

山上の垂訓の最初の8つの至福は、それまでの社会常識を覆すイエスの逆説的な発想によって構成されている。ギリシャ語の原典では、イエス御自身が語って入るので文法的に現在形になって、それらの人々はすでに神の救いのうちにいると解釈できる。つまり イエスは、神が約束通り独り子の私を遣わしたのだから、あなた方は救われている。だから私と共にいることによる迫害も大いに喜びなさいとなるのだろう。

18年前マザーテレサとの不思議ないきさつによって出版された「Anyway」、日本語タイトル「それでもなお、人を愛しなさい」は山上の垂訓の「幸い」の  イエスの逆説的人生を彷彿させる。私には、愛するものから裏切られても、それでもなお私たちを愛し十字架の道を選ばれたイエスの生き方そのものにも思える。

Anyway~人生の意味を見つけるための逆説の10か条~にあるように、あなたたちは平和を愛する神の民として、周りの人々を愛し、たとえそのために不利益があったとしても、Anyway、たとえ結果はどうであれ、その人々のために祈り働くものとなりなさいと神は期待なさっているのではないか。

愛し十字架の道を選ばれたイエスの生き方そのものにも思える。

Anyway~人生の意味を見つけるための逆説の10か条~にあるように、あなたたちは平和を愛する神の民として、周りの人々を愛し、たとえそのために不利益があったとしても、Anyway、たとえ結果はどうであれ、その人々のために祈り働くものとなりなさいと神は期待なさっているのではないか。

 

 

礼拝(10/20)説教片々    

   

  「一つの体と多くの部分」    

         Ⅰコリント書12章12~27節

 

 パウロはここで後世のキリスト教にとって重要な「教会体(からだ)論」を語っています。これは彼が頭の中で考えた理論ではなく「だれが一番か」で混乱するコリント教会を正常に戻すための方法でした。彼はここで

「教会の皆が一つとなるために洗礼を受けた」と言います。洗礼とは一個人の救いにとどまらず、もっと大きな意味があるのです。それは洗礼を受けた一人一人が一つの体、それもキリストの体とされるためです。一人一人がキリストの体の一部分ですから一人としていなくていいという人はいません。教会は互いに違いを認め合い、互いに尊重し合って心を一つにして、それぞれの働きを精一杯してゆくのです。

 この「パウロの教会体(からだ)論」の中で特徴的なのは「体の中で他より弱く見える部分が、かえって必要なのです」と言っている所です。人間は自分の弱さを隠そうとしますが、神様はそうではありません。神は弱い人々を教会に必要な人として教会に招き、ひき立ててキリストの体の一部に組み立てられたのです。即ち教会は弱い人々を中心に置くのです。そして、「一部が苦しめば共に苦しみ、一部が尊ばれればすべての部分が共に喜ぶ」のです。今コリント教会の人々は、異言が話せるとか預言ができるとか病がいやせるとか、人と違う何かができる聖霊の賜物を競い合って求めています。でもパウロは、「聖霊がくださる賜物の中で一番大きいものは愛である。あなた方は、この賜物を受けるために熱心に努めなさい」と、皆の目を「愛」へと向かせるのです。

 

礼拝(10/13)説教片々    

   

   「霊的な賜物」    

       Ⅰコリント書12章1~11節 

 

 コリント教会の人々は正しい聖霊の知識がなく、互いに聖霊の賜物を巡って争いが起こっていました。そんな混乱した教会にパウロは聖霊とはどんな神なのかを教えます。

 キリスト教の神は目に見えませんが、私達に言葉をくださる神です。しかし当時の教会の人々霊的な賜物としては異言を語れる者が聖霊を与えられた者だと考えていました。そんな人々に対しパウロは、「聖霊によらなければだれも『イエスは主である』とは言えない」と教えたのです。即ち自分に聖霊が与えられているかどうかは、異言を語れるかどうかだけではなく、「イエスは主である」と言える者にも与えられていると言ったのです。こうしてパウロは「聖霊の賜物のワク」を皆なが考えるよりもはるかに幅広くしたのです。これは信仰者すべてが聖霊の賜物を受けていると実感できる定義です。

 そしてパウロは聖霊についてもう一つ大切なことを教えます。当時の人々は聖霊はいくつもあってそれぞれ違う賜物を人に与えると考えていました。しかしパウロは聖霊は一つであって、聖霊が望むままに一人一人違う賜物を与えている。それぞれの賜物に優劣はないと言います。聖霊は人に優劣をつけるために賜物をお与えになるのではなく、違う賜物を与えて「全体の益となる」ようになさったのです。こうして賜物をいただいた者は一つとなって力を合わせて神のみ業のために働くのです。

 

 

 

 

礼拝(10/6)説教片々    

   

  「主による仲裁」    

            

       Ⅰコリント書 11章17~26節 
 
 私達の教会の聖餐制定語は、コリント教会の驚くべき混乱の中から生まれました。この教会には金持ちグループと貧しい人々のグループの対立がありました。それが明確に現れたのが毎週礼拝の中で行なわれる晩餐の席でした。金持ちは豪華な食事を持ち寄り自分達だけで食べ、貧しい人々は食べる物もなく空腹のままでした。大切な主の晩餐の意味を皆知らず自分のことしか考えていないのです。そんな金持ちにパウロはこの聖餐制定語を語ります。これを聞いた金持ち達は、聖餐の本当の意味を知り、貧しい人々を恥ずかしめていたことを深く悔いたのです。聖餐式は人間同士の力ではどうにもできない対立に、主自らが仲裁に入って下さったという出来事なのです。こうして聖餐を通して教会の一致は保たれ、神の栄光が現わされるのです。
 そしてもう一つ、聖餐は信仰者の人生すべてを現しています。聖餐の「パン」は、私達の信仰生活が十字架からスタートしたことの記念です。そして「杯」は信仰者のゴールが神の国であることを現しています。私達はまだ神の国への道半ばです。時としてコリント教会の人々のように道に迷うのです。だからこそ主イエスは聖餐を制定して下さったのです。私達は主からこの「パン」と「杯」を受ける度にスタートとゴールを再認識させていただき、元の道へ引き戻されるのです。そして私達がこの道々すべきことは、「主が再び来られる時まで、主の死を告げ知らせる」ことです。

 

礼拝(9/29)説教片々    
   
   「神の栄光のために」    
       Ⅰコリント書10章23節~11章1節

 「すべてのことが許されている」。これは福音の真髄です。ところがコリント教会の人々はこの自由を履き違え、自己主張と自分中心の生き方となり、その結果教会の中に大混乱が起こったのです。パウロはそんな人々に、「すべてのことが許されているとあなた方は言うけれど、すべてのことが益になるわけではない」と忠告します。そして信仰者にとって本当に大切な自由とは、「自分の利益でなく、他人の利益を追い求めることです」と教えます。今自分のことしか考えない現代の世界にとっても、これは非常に重要なことです。では私達はどうしたら「人のために生きる者」になれるのでしょう。それは古い自分に一度死ぬことです。それが洗礼です。私達洗礼によって、十字架にかけられたイエスと共に古い自分に死んだ時、自己中心の生き方から解放されるのです。そして再び神によって新しい人生を与えられ「人のために生きる者」とされるのです。そういう意味で洗礼には大きな意味があるのです。
 パウロはここで食事について言っています。「あなた方は食べるにしろ、飲むにしろすべて神の栄光を現すためにしなさい」。このような飲んだり食べたりするという日常茶飯事の小さなことの中でも、自分の利益ではなく、他人の利益を追い求める所に、神の栄光が現わされるのです。今様々な悩み苦しみの中にあるこの世にあって、私達がこのように「人のために生きる」ことによって、神は教会を世の光、地の塩として用いて下さるのです。

礼拝(9/22)説教片々    

   

  「逃れの道」    

        Ⅰコリント書10章1~13節

 神は真実な方です。あなた方を耐えられないような試練にあわせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れの道をも備えていてくださいます。

 今コリント教会の中には様々な問題が起こっています。パウロはこの教会を一つにするため、出エジプト物語を語ります。イスラエルの民は、神の約束されたカナンの地目指してエジプトを出発し、40年にわたり荒野を旅しました。しかし途中で様々な試練にあう度に神に不平不満を言い、結局「神に信頼し切れない罪」によって滅んでゆきました。教会もこのイスラエルの民と同じく神の約束した天の国を目指して旅する者です。彼らと同じ罪を犯してはならないと、パウロは警告します。

 イスラエルの民が食料や水がないと文句を言ったが、彼らは死んだのか。神はちゃんと天からパンを降らせ、岩から水を出して彼らを養って下さったのです。神は私達を耐えられないような試練にあわせず、耐えられるよう逃れの道を備えて下さるのです。

 パウロは、「神は約束の地を目指す者に、いつも離れずについて来る救いの岩をお与えになる」と言います。それがイエス・キリストです。私達が様々な試練の中で心弱る時はこの岩の所へ行けばいいのです。そこから霊的な食事と霊的な飲み物をいただくのです。その時私達は再び元気を取り戻します。これが聖餐式なのです。聖餐式は信仰者にとって欠くことのできないものです。聖餐式は神が私達を見捨てていないしるしであり、逃れの道だからです。

 

 

礼拝(9/15)説教片々    

   

  「賞を得るように走る」    

         Ⅰコリント書9章19~27章

 

 偉大な伝道者と言われたパウロが行った伝道は、「私はだれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました」というものです。即ち彼は、ユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のように、弱い人には弱い人のようになったのです。何とかして何人かでも救うためです。でもこれは一見自分の生き方に筋がないようにも見えます。しかし彼は自分の筋を捨ててはいません。彼はひたすらキリストの愛の律法に従っているのです。何より彼自身がこのキリストの大いなる愛によって救われたからです。そのキリストがパウロの目の前にいる、彼と考え方が違う兄弟をも愛しておられるのです。彼はそのキリストの愛に従うしかないのです。もしキリストの愛した人を自分が愛さないのなら、自分はキリストに対して罪を犯す者となるからです。

 彼は懸命に、「自分の体を打ちたたいて」キリストの愛に自分を服従されたのです。打ちたたくというのは、今自分が持っている「こうあるべき」という心の殻を祈りつつ壊してゆくことです。これがパウロの行った競技です。信仰者はどこまでキリストの愛に自分を服従させられるか挑戦していくのです。これがキリスト者の節制です。パウロは賞を目ざして走る競技者のように、自分の内にどれだけ多様な人を受け入れられるかに挑戦し続けたのです。もしそうしなければ、自分が宣べ伝えながら自分が失格者になるからです。

 

礼拝(9/8)説教片々        

 

         「知識は人を誇らせ、愛は人を造る」 

           

                                   Ⅰコリント書 8章1~13節 

 

 コリント教会からパウロに、「偶像に供えられた肉を食べる」ことについて質問が届きます。律法では禁じられています。彼はこのような日常茶飯事の出来事の中にこそ、信仰の真髄があると見て取り、まず「知識と愛」について語ります。人が勉強して得た神など実に小さな神にすぎません。大切なことは、自分が神について知ることより、自分が神に知っていただくことです。もし、「神を愛する人がいればその人は神に知られている」、即ち神に愛されているのです。これが神を知る知識の奥義です。ここでパウロは、「私は神に愛されている」ということをもって日常に起こるすべてを判断しなさいと言うのです。 彼は「偶像に供えられた肉は食べて良い」と言います。なぜならこの世には唯一の神以外存在しないからです。偶像に供えられた肉もただの肉です。キリスト教はこの世のタブーから人を解放します。しかしパウロの答はここで終わりません。彼は教会の中にタブーを破って肉を食べる信仰の強い人々に言います。「この自由な態度が、タブーを破るのを恐れる信仰の弱い人々を苦しめないよう気をつけなさい」。本来、信仰の強い弱いは肉を食べる、食べないではありません。それより「私を愛して下さった主が、この目の前の兄弟をも愛しておられる」ことに目を向けられる人こそ、信仰の強い人なのです。そしてその兄弟と同じ場所に下っていける人です。パウロはこの時、「肉を食べられない人のために私も決して肉を食べない」と言ったのです。

 

礼拝(9/1)説教片々

「真の自由」   

         1コリント書7章1~24節 


パウロは、「それぞれ神に召された時の身分のままで歩みなさい」と教えます。人にはそれぞれ違った分が与えられています。人に与えられた分には二種類あります。一つは「自分で変えられる分」と、もう一つは「自分で変えられない分」です。パウロはここで奴隷の身分の人に、「自由になることができるとしてもむしろ今のままでいなさい」と言います。パウロがこう言う背景には、当時の人々が信じた終末思想があります。多くの人が週末を恐れて快楽主義や禁欲主義に走って行く中、パウロは「残された短い地上の生活を右往左往せず、今のままで動かされることなく、神のみ前に留まって生きなさい」と教えたのです。なぜならもうすぐこの世が終わり、神の国では身分の差のない平等な生活が始まると信じたからです。しかし週末は未だに来ていません。このような世界で今私達は神の国で始まる平等な社会を先取りして実現していくのです。今私達は主から与えられた分を変えてゆく勇気が必要なのです。
一方、私達には自分で変えられない分があります。自分の生まれや能力だけでなく、人生で出会うつらい出来事から逃げられない時はどうしたらいいのでしょう。パウロは言います。「奴隷のままでいなさい。あせる必要はない。あなたは決して見捨てられてはいない。主によって召された奴隷は、主によって自由の身とされたのだから」。自分の力で変えられない分を主に与えられた分として受け入れ、神の前に留まる時、私達の内に平安が与えられるのです。

 

礼拝(8/25)説教片々    

   

  「結婚について」    

         1コリント書7章1~16節 

 

 ここにあるパウロの独身主義や離婚禁止は後代の教会に大きな影響を与えました。しかしこれらは一般的な結婚についての教えではなく、コリント教会に入り込んで来た禁欲主義へのパウロの意見です。禁欲主義者は教会の人々に結婚を禁じただけでなく、既婚者の性的関係も禁じました。これに対してパウロは、「みだらな行いを避けるため男も女もそれぞれ結婚しなさい」と結婚を禁止せず、「互いに相手を拒んではいけない」と夫婦関係も認めます。ただこの中でパウロは既婚者の離婚を禁止します。しかし離婚は律法でも認められ、主イエスも認めておられることを考えると、ここには何かわけがあるようです。それは禁欲主義者が信者の結婚を禁じただけでなく、既婚者に離婚を命じたということです。そしてそれに従って実際に離婚した夫婦がいたのです。本来結婚は神の祝福の内に始まったものであり、仲が悪くもない夫婦を禁欲主義者が別れさせるのは、神に背く行為です。だからパウロは「主が命じる」と言って禁欲主義による離婚に反対したのです。また彼らは信者に未信者との離婚も命じたようです。これに対してもパウロは未信者は信者の相手によって清められており、神は二人共にご自分の内に招かれているとこの離婚にも反対します。ただ他方の心が離れてしまったなら「信者は結婚に縛られてはいない」と離婚を認めるのです。ここでパウロは「禁欲主義に決した振り回されてはいけない」と教えているのです。神は結婚を通しても私達を平和な生活に召して下さったのです。

 

礼拝(8/18)説教片々    

   

  「私の体はキリストの一部」    

          Ⅰコリント書6章12~20節

 パウロはコリントの町の人々に、「キリストはあなた方に自由を与えるために来られた。今やすべての人は自由だ」と宣言しました。ところがこれを信じた人々は、食欲と性欲を同じものと考え、やりたい放題し始めました。これを知ったパウロは両者の違いを教えます。

 食欲は自分一人のお腹の問題です。でも性欲は相手があり、お互いの体全体に関わる人格的問題です。そこには愛を第一とした人格的交わりがあるかが問われます。これを無視して性欲のみに走る時、人は自由どころか欲望の奴隷に成り下がってしまうのです。

 パウロは、「体は主のため」と言います。私達の体は本来神によって造られたものですから「体は主に献げるためにある」のです。私達は一番大切なものは自分で守らなくてはと考えますが逆なのです。大切なものは手放して主にお献げするのです。すると不思議なことがおこります。「体は主のため、主は体のためにおられる」のです。私達が自分の体を主にお献げする時、今度は主の霊が私達の内に来て下さり私達と一つとなって、私達の体はキリストの一部とされるのです。この時私達の恐れるものは一つもありません。私達の体は神からいただいた聖霊の宿る神の神殿とされるのです。この世にこんな尊いものはありません。私達は決して自分の体を粗末に扱ってはなりません。私達は神によってイエスの十字架の命と引き替えに、罪から買い取っていただいた者です。隣人との間に愛を第一として大いに自由に生き、神の栄光を現す者となるのです。

 

礼拝(8/11)説教片々    

   

  「十字架のキリスト」  竹田伸一牧師

       ルカ 23章32~43節

 

 4つの福音書を合わせ見ると、主イエスは十字架上で7つの言葉を語ったことがわかります。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。主イエスは自分に敵対する者達、私たち全ての罪の赦しの為に十字架にかかりました。美術の罪状書きにはしばしばINRIというアルファベットが並びますが、それはラテン語「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」(ヨハネ19:19)の頭文字です。イエスの両側には2人の犯罪人が十字架につけられましたが、2人はキリストに対する人間の典型的な態度とも言えます。敵対するか、心の目が開かれて自らの罪を認め、イエスを自分の救い主として受け入れるかです。

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)。絶望的な最後の状態でも、主イエスは「今日」私たちを救うことができる存在です。

「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」、「見なさい。あなたの母です」(ヨハネ19:26-27)。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)。「渇く」(ヨハネ19:28)。「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)。

 

 十字架上で主イエスは私たちの罪の赦しの為の業を完成されたので、「今日」御前に進みましょう。

 

 平和聖日合同礼拝(8/4) 説教片々    
   
   「ファラオの見た夢」    
          創世記41章15~16節

 

 ヨセフは子供の頃兄弟達にエジプトに売られ、奴隷として成長しましたが、ある日無実の罪で牢に入れられます。それでも彼はあきらめず、神様に祈って救いを待ちました。そんな時、牢に二人の役人が入れられ彼らの夢を解いたことから彼の人生は変わります。
 今度はエジプトの王ファラオが不思議な夢を見たのです。しかしこの夢を解ける者はエジプトの中に一人もいませんでした。その時、かつて牢の中でヨセフに夢を解いてもらった役人がヨセフのことを思い出し、彼を牢から連れてきてファラオの夢を解かせます。ヨセフはファラオにこの夢はこれからエジプトの国に7年の大豊作があり、その後7年の大ききんが起こるという神からの警告であることを伝え、更にこの7年の大豊作の間に十分食糧を蓄え次のききんに備えれば国は滅びないと進言します。これを聞いた王はヨセフの賢さに驚き、その場で彼を総理大臣に抜擢します。こうしてヨセフは牢から出られただけでなく、この国で王に次ぐ地位についたのです。しかし神はこれをただヨセフを救うためだけになさったのではありません。
 この後ヨセフは総理大臣として大豊作の間食糧を十分蓄え、次の大ききんの間エジプト国民を飢えから救うだけでなく、近隣諸国の飢えて苦しむ人々をも救ったのです。神様は豊かな国が自分の持つ物を貧しい国々に分け与え助け合う世界を造ろうとされています。その時世界に平和がやって来るのです。

 

礼拝(7/28)説教片々    
   
    「信者同士の争い」    
        Ⅰコリント書6章1~11節

  

 ここでパウロは教会内部のもめごとを内部で処理できず、外部の裁判所に持ち込んだことを強く批難しています。でもパウロは信仰者が裁判所に訴えることを何もかも否定しているのではありません。後にパウロ自身ローマ皇帝に裁きを求めます。今パウロは教会内部の自浄能力を求めているのです。
 この教会は裁判ざたが起こった理由は、皆なの心を支配していたのがパウロの教えた福音ではなく、当時の世界を支配していたギリシャ的知恵だったからです。人間知恵が働くと自分が損しないように損得勘定に長けてきて、勢い人との争いも増え、その結果同信の友を裁判に訴えることにもなるのです。そんな人々にパウロは、「なぜ不義を甘んじて受けないのか。なぜ奪われるままでいけないのか」と問います。パウロはこの言葉を教会の人々が受け入れ難いことを敢えて承知の上で言っています。なぜなら彼が、「不義を甘んじて受け入れ、奪われるまま死なれた」神の子イエスによって救われたからです。主イエスは損をし、その損によって全人類は救われたのです。損することは無意味なのか。いや愛とは損することなのです。教会は神がこの世に損する所として立てられたのです。そしてそれを世界へ広めてゆこうとされているのです。そうして人間同士が損を恐れない時、争いが消え、国同士が損を恐れない時、平和が作られます。パウロは教会内の自浄能力を規則によって作るのでなく、愛によって作ろうと教えるのです。

礼拝(7/21)説教片々    
   
   「教会の清潔」    
         Ⅰコリント書5章1~8節 
 
 今コリント教会の中には近親相姦や偶像礼拝など驚くべき罪を犯す者が多くいます。彼らは、「キリストによる自由」の意味をはき違えているのです。神は自由にされた人々を、神に喜ばれる聖なる生き方に召しておられます。パウロは「このような罪を犯す者を教会から除外すべきではないか」とその当事者と同時に、そのような罪を放置していた教会をも強く批判しています。教会は神からいただいた自由をきちんと守ってゆく責任があります。教会の外から教会の自由を奪おうとする力が働いたら抵抗し、教会の中に自由を取り違える人がいたら正してゆく責任があるのです。
 もちろんパウロは自分が、「神に先立って裁くな」(4:5)と言ったことも覚えています。ですから裁きには慎重です。裁きで大切なことは、だれか一人の意見で決めるのではなく、教会全体で決めることです。もう一つの大切なことは、「教会の裁きと神の裁きは違う」ということです。パウロは、罪人を教会から除外する理由は、「彼が悔い改めて主の日に彼の霊が救われるためだ」と言うのです。教会から除外されても神に見捨てられるのではありません。パウロは彼が再びサタンの支配する国へ帰るが、その恐ろしさを知って悔い改める道がまだ残っていると信じるのです。教会には様々な人がいます。きびしい裁きをつきつけられなければ救われない人もいるのです。でも教会はこのようなことをしてでも、一人一人にあわせた救いの道を考えてゆく責任があるのです。

 礼拝(7/14)説教片々    

   

  「神の国は言葉でなく力」    

          Ⅰコリント書4章14~21節

 

 この時代はまだ聖書もなく、できたばかりの教会に先輩もいません。頼りになるのは、かつてパウロ達伝道者から聞いた説教だけです。しかしそれも時間がたつ内に忘れられ、今コリント教会の人々は自分勝手なことを言ったりしたりしているのです。そんな人々にパウロは、「皆が考えを変えなければ、私が鞭を持っていくがいいか」ときびしい手紙を書いています。しかしパウロのこの厳しさは、決して権力を振りかざしているのではなく、教会を愛しているからです。今彼は先生ではなく父親として振舞っています。そして先輩のいない教会のために、「私に倣う者となりなさい」と自分を信仰のモデルにするよう命じるのです。

 信仰は口で言うだけでは伝わりません。それを生きている人に習うことが大切です。そのためパウロは弟子のテモテを遣わして彼からパウロの生き方を学ばせようとします。パウロが教会の人々に示した一番大切な模範とは、自分の行動の立派さを教会に誇ることではありません。テモテにあてた手紙の中にこうあります。「私は罪人の頭です。しかし私が憐みを受けたのは、私がこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした」。(Ⅰテモテ1:15~16)

パウロは教会の人々の前に自分の罪を認めてはばかりません。そんな自分が赦されて生まれ変わったからです。「神の国は言葉ではなく力にある」のです。信仰とは言葉だけでなく、良い時も悪い時も、神を人の前で正直に生きることです。その時神の力が働いて、私達の家庭、教会、生活に救いが与えられるのです。

 

礼拝(7/7)説教片々    

   

 部落解放祈りの日 

 

  「高ぶることのないために」    

          Ⅰコリント書4章6~13節

 

 パウロは人間の差別心は心の「高ぶり」から生まれると言います。かつて彼がユダヤ教の律法学者だった頃、自分には知恵があり、律法を完全に守っているという「高ぶり」があり、その熱心のゆえにキリスト教を迫害していました。その彼が復活の主の声を聞き、悔い改めて知ったことは、「人間はイエス・キリストによってすべてのものから自由にされたが、高ぶる自由だけは許されていない」ということです。

 今コリントの教会は、分裂し争いがたえません。彼らは自分の力でがんばってすべてがやれていると思っています。これこそが神の前にあって最大の高ぶりです。そんな彼らの姿を見てパウロは、「あなた方は満足し大金持、いや王様になっている」と高ぶる彼らを皮肉っています。パウロは、「そんな高ぶりの王様でなく、真の王様になりなさい」と忠告します。真の王様とは、この世での完成を求めず、神の国での完成を目ざす人です。私達がこの世で完成しなくていいということは、何という自由でしょうか。私達この世にあってありのままの姿でいいのです。パウロはキリスト教の伝道者として様々な苦難を味わい、人から「くず、かす」のような扱いを受けましたが気にしません。なぜなら、目ざすは神の国の完成であり、この世にあってはひたすら「神を愛し、隣人を愛する」ことに徹すればいいからです。この時、人は自らの「高ぶり」と「差別」から解放されるのです。

 

礼拝(6/30)説教片々    

   

  「時に先立って裁くな」    

          Ⅰコリント書4章1~5節

 

 パウロはコリント教会の人々に、教会の指導者の本来の役割を教えます。第一に教会の指導者とは、「教会に仕える管理人」です。その指導者がどんなにすばらしい人であっても、神から遣わされた管理人にすぎないことを忘れてはならないのです。そして第二に教会の指導者は、神の秘められた計画を委ねられた人です。ですから党派を作って一人の指導者の話しか聞かないというのは、神の秘められた計画を幅広く知ることができなくなるのです。それは教会にとって大きな損失です。パウロは今教会をこの損失から救おうと分裂を戒めるのです。

 この管理人に必要なことは、「神への忠実」です。神は人間に対してとことん忠実なお方です。ゆえに人間も神に忠実を返すのです。神への忠実とは、自分は神のことを何でも知っているとおごらないこと、自分の判断力、価値観が最高だとおごらないことです。パウロは教会の指導者に「おごり」を強く戒めます。なぜなら自分の思いや考えが正しいかがすべて明らかになるのは、主が来られる時だからです。その主が来られる時まで先走って何も裁いてはいけないのです。パウロ自身も、「私はだれからも裁かれないし、だれをも裁かないし、自分自身をも裁かない」と言っています。裁き主は神以外にはおられません。その主が最後の時、闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企ても明らかにして下さるのです。あせる必要は何もないのです。

 

 

礼拝(6/23)説教片々    

   

  「あなた方は神の神殿」    

          Ⅰコリント書3章16~23節

パウロはコリント教会の人々に、「あなた方は神の神殿であり、神の霊が自分達の内に住んでいることを知らないのですか」と言います。これは驚きです。こんなにけんかばかりしている教会の人々を「神の神殿」とパウロは言います。聖霊とは自分が居ると信じると居て、信じないと居なくなるというようなものではありません。すでにここに教会がある限りそこに神を信じる者がいる限り聖霊はここにおられ、教会の一人一人が聖霊の住む神の神殿なのです。それ程教会の一人一人は神のみ前で重いものなのです。

 だからパウロは、この神殿を壊そうとする者に厳しいのです。教会を壊すものとは外からの強い力ではなく、むしろ人に良いと思われているものが教会を壊すのです。パウロは「それは人間の善意や知恵だ」と言います。教会の中で聖霊の力に信頼するより、人間の善意や知恵が第一となってそれらが互いにぶつかり合う時、教会に分裂が起こるのです。

 パウロはそのような人々に、「本当に知恵ある者となるために、愚か者になりなさい」と勧めます。まさに「能ある鷹は爪を隠す」のです。わたしたちが聖霊を第一に生きる時、私達は善意や知恵を出す時をわきまえる事ができます。逆にキリストと神以外のものにしがみつく時、たとえそれがどんなに素晴らしい知恵や美しいものであっても、私達はそのものの奴隷とされ神の神殿を壊すものとなるのです。私達が常に聖霊第一に、神の神殿である事を自覚して生きることが、一番大切なのです。

礼拝(6/16)説教片々    

   

  「キリストの土台の上に」  

Ⅰコリント書3章10~15節          

 建物でまず大事なのは土台です。信仰も同じです。こんなにけんかばかりしているコリント教会の信仰の土台は大丈夫なのでしょうか。パウロは、「私は神からいただいた恵みによって熟練した建築家のように土台を据えました。その土台こそイエス・キリストです」と自信を持って言っています。一度イエス・キリストの上に建てたものは、二度と変わることがありません。「イエス・キリストを土台にする」とは、イエス個人の上に建てるという小さな意味ではなく、イエスをこの世に遣わされた「神の大きな愛」の上に建てるということです。コリント教会はパウロの伝えた神の愛を信じ、その上に据えられたのです。

 にもかかわらずこの教会が分裂しているのはその後の建築に問題があるからです。パウロは教会建築の材料として、「金・銀・宝石・石・木・草・わら」をあげます。「金・銀・宝石」は火に燃えませんが、高価で手に入りにくいものです。一方「木・草・わら」はすぐに火に燃えますが、安いのでてっとり早く手に入ります。コリント教会はどう見ても「木・草・わら」の教会です。「木・草・わらの教会」というのは、人のことより自己中心の教会です。パウロはこのような教会は、最後の審判の時、神の火で焼かれ何も残らなくなると警告します。一方「金・銀・宝石でできた教会」とは、土台が「神の愛」でできているように建物も「互いの愛」によってできている教会です。パウロはこの教会をあきらめません。私達のゴールは最後の審判の日、神の前に立つ時です。その日に神が喜ばれるようにこの世にあって愛一番で生きるのです。 

 

 

礼拝(6/9)説教片々    

   

  「フィリピの牢番」    

          使徒言行録16章25~31節

 

 ペンテコステの日以来、聖霊を受けた弟子達は世界各地へ伝道に向かいました。パウロとシラスはフィリピの町で占いの霊につかれた女奴隷から悪霊を追い出して助けますが、その女の主人に訴えられ鞭打たれ牢に入れられます。良いことをしたのにひどい目に合わされたパウロですが、彼は言います。「福音のため私は苦しみを受け鎖に繋がれています。しかし神の言葉は繋がれていません」。パウロはたとえ無実で牢に入れられても、自分で自分を救えない苦しみの中にあっても絶望しません。なぜなら彼の信じる神の力は、風のように自由に働くことを信じていたからです。彼らは絶望どころか牢の中で賛美し祈り、牢屋を礼拝の場に変えてしまいます。するとまず、二人の賛美と祈りを聞いた他の囚人達の心が変わります。彼らは神を信じる者とされます。

次にそこの牢番が救われます。その夜大地震が起こり牢の戸が開き、鎖もはずれてしまいます。それを見た牢番は、囚人が全員逃げたと思って自殺を図ります。その時パウロが大声で「自殺するな。皆ここにいる」と言ったのです。これを聞いた牢番は急に畏れを覚えます。「なぜ囚人は逃げなかったのか」。この時牢番は彼らの後ろに大いなる神の力を感じて、二人の前にひれ伏して言います。「救われるためには何をしたらいいでしょうか」。答は一つです。「主イエスを信じなさい」。これだけです。「そうすればあなたもあなたの家族も救われます」。彼はこの言葉に従い、家族と共に救われたのです。

礼拝(5/26)説教片々    

   

   「‘霊’に教えられた言葉」    

       Ⅰコリント書2章6~⒑節

 

 パウロは知恵には二種類あると言います。それは、「人間の知恵」と「神の秘められた霊的な知恵」です。パウロはこの「神の知恵」を語る時、慎重に相手を選びます。なぜなら信仰者の中には、「信仰の成熟した人」と「信仰の幼な子」がいるからです。それは信仰歴の長さではなく、信仰の質の違いです。コリントの教会の人々は「信仰の幼な子」が多いのです。彼らはキリストを信じながらも依然としてこの世的な生活状態を改められず、「ねたみや争い」に夢中になっています。この教会の問題は、この人々によって引き起こされているのです。

 では「神の秘められた霊的な知恵」とは何でしょうか。それは神がこの世が始まる前から準備された、この世を救う唯一の手段です。それは一言で言えば、十字架・・・と・復活・・の・真理・・です。これを信じることは、人間にとってそう簡単なことではありません。ペンテコステの日、弟子達の上に聖霊が下って初めて彼らはこれを信じることができました。同じように私達も一人一人の上に聖霊が下らなければこれを信じることができません。かつてコリントの教会の人々も聖霊によってこの真理を信じたはずです。でも今教会が一つになれないのは、「神の知恵」である十字架と復活が信仰の中心にないからです。この教会はどうしたら本当の「神の知恵」に到達できるのでしょうか。パウロは言います。「神が霊によって明らかにして下さいます」。神だけが人に深い真理を教えることができるのです。だからパウロはこの教会をあきらめないのです。

礼拝(5/19)説教片々

「三度問うイエス」    

      ヨハネ福音書21章15~19節 

 復活の主はペトロに、「あなたは私を愛するか」と三度同じ質問をします。それに対してペトロは、「はい、私があなたを愛していることはあなたがご存知です」と三度答えます。しかし三度目には、ペトロはイエスに信用されていないと思い悲しくなります。でもペトロを信用しないイエスが三度も、「私の羊を飼いなさい」とは命じません。イエスは信用できない羊飼いに大切な信仰者の群れを託したりしません。

 ではなぜイエスはペトロに同じ質問を三度もしたのでしょう。それは、「イエスを愛し、最後(・・)ま(・)で(・)イエス(・・・)に(・)従う(・・)」ことこそ信仰の真髄だからです。ただこの決断はとてもむずかしいのです。一度目のイエスの問いにすぐ、「はい」と答えたペトロですが、かつて彼はこの決断を守れずに三度も「イエスを知らない」と言って主を捨てたのです。そんなペトロに今主は、同じ失敗をくり返さないために三度も教えておられるのです。主に従い通すために伴う苦しみを乗り越える力は自分自身の内にはなく、ただ「イエスを愛する」その心が一番の力であると。そしてイエスはペトロの最後の姿を予言します。「はっきり言っておく。あなたは若い頃は自分で帯をしめ行きたい所へ行き、自分の力で何でもしようとがんばって失敗(・・)した(・・)。あなたは年を取ると他の人に帯をしめられ、イエスと同じ十字架に至るまでイエスに従い続ける。こうして若い頃はできなかった『死ぬまでイエスに従う』という決断が、年を取ってから成就(・・)される(・・・)」。この主の予言通り、ペトロは喜んで最後まで主に従い神の栄光を現わしました。

 

 

礼拝(5/12)説教片々    

   

  「三度目の顕現」    

        ヨハネ福音書 21章1~14節

 

 これは一晩中漁に励んだけれど、一匹の魚もとれなかったという弟子達の物語です。即ち彼らは、「人間をとる漁師」として伝道を始めたけれど、伝道が全く進展しなかったということです。これが当時のヨハネの教会の現実であり、現在の日本の教会の現実です。こんな弱い教会の力はどこにあるのか。これが21章のテーマです。

 この物語を見ると、魚がとれず苦闘する弟子達をじっと見つめる復活の主が岸辺にたっておられます。でも弟子達には、それが復活の主だと、わかりません。なぜなら彼らはこんな所に復活の主がおられるなどと予想も期待もしていないからです。イエスの存在に期待しない時、私達の目には復活の主は見えません。そして自分の力でがんばって得られる収穫は少ないのです。ヨハネは今教会の人々に言うのです。「あなたは気付いていますか。あなたが一週間この世の業に苦闘している時、復活の主があなたを見守っていることを。そしてこの世の業を終えて疲れ切って日曜日教会に帰ってきた時、あなたを一番に迎えるのは復活の主だということを」。弟子達がこの復活の主の声に従って足元に網を入れると大漁が与えられたのです。復活の主と常につながっている、これこそが教会の力です。その時、弱い教会が驚くべきみ業をなすのです。私達は「舟の右側に(あなたの足下に)網を打ちなさい」と命じられる復活の主の声に従って、日々伝道に励むのです。

 

礼拝(5/5)説教片々    

   

  「私の主、私の神」    

         ヨハネ福音書 20章24~31節

 この世には復活を信じられない人がたくさんいます。それがこの世の常識です。そんな人の代表がイエスの弟子のトマスです。彼は仲間から「復活の主を見た」と聞いても信じません。「イエスの手の釘跡に指を入れ、脇腹の傷に手を入れてみないと信じない」と言うのです。復活のイエスを信じないトマスにとってイエスとの未来はありません。あるのはイエスとの過去の思い出だけです。そんなものはイエスの影にすぎず、何の力もなく、結局彼は一人で生きてゆくしかないのです。

 ところがある日、復活の主が再び弟子達の前に現れトマスに言いました。「あなたの指を私の手の釘跡に入れ、あなたの手を私の脇腹に入れてみなさい。信じない者でなく、信じる者になりなさい」。復活の主はトマスの不信仰を叱ることなく、むしろ全部納得するまで確かめてみなさいと言われたのです。この瞬間トマスの目が開かれます。彼は復活の主が自分一人のために来て下さったこと、それも復活の輝かしい姿でなく十字架で殺された時のままの惨めな姿で来て下さったのを見て、主イエスがどれ程自分を愛していて下さるかがわかったのです。この時彼は、復活を確かめることなどどうでもいいことだとわかりました。一番大切なものは目で見て確かめられるものではない。でもそれは復活の主の中にあることがわかりました。この時トマスはイエスに向かって「私の主、私の神」と告白したのです。復活の主を「私の神」にする時、私達とイエスの未来が開かれます。私達はもはや一人で生きるのではなく、この主と永遠に生きるのです。

 

礼拝(4/28)説教片々    

   

   「私もあなた方を遣わす」    

        ヨハネ福音書20章19~23節

 

 「私は既に世に勝っている」。かつてイエスが言われたこの言葉が本当であったことを、復活の主と出会った弟子達は知り喜びました。その弟子達に復活の主は新しい使命を与えます。「父が私をお遣わしになったように私もあなた方を遣わす」。その使命こそ、「独り子を十字架につけてまでもこの世を救おうとされた神の愛を人々に伝え、永遠の命に与る者とされるよう働くこと」です。

 そう言われてから主は弟子達に息を吹きかけます。この時イエスの息である聖霊を受けて教会ができました。教会は何人もの人が集まっていますが、最初からイエスの息によってできた一つの生命共同体です。そして更にイエスは、「だれの罪もあなた方が赦せば赦され、赦さなければ残る」と言われました。これは教会がイエスから託された使命を果たすなら、イエスが本来与えられていた人を赦し罰する権限も受け継ぐということです。イエスは教会の使命の重さをこのように言われたのです。なぜなら教会の働きいかんによって、この世の人が永遠に生きるか滅びるかがかかっているからです。この世にあって教会は小さなものにすぎません。しかしその働きは、この世の何物より大きいのです。しかしそれは決して私達の力でなし得るものではありません。たえず聖霊の力を祈り求めなくてはなりません。その時主は教会にこの働きをなし得る力を与えて下さいます。そして主がご自分の人を裁く権限を一度も行使されなかったように、私達も人に仕える姿を貫いてゆくのです。

イースター合同礼拝(4/21)説教片々

      「復活の朝」    

        ヨハネ福音書20章19~21節

 

 「やさしい目が」という讃美歌(21-470)は、主イエスの姿を大変よく表わしています。一番の「やさしい目」は、ペトロが三度「イエスを知らない」と言った時の歌です。突然鶏が鳴くのを聞いたペトロが、思わずイエスの方をふり向いた時、イエスもふり向いてペトロを見ました。その時のイエスの目が、「やさしい目」だったのです。イエスはペテロがどんなに失敗してもいつも変わらないやさしい目で見守り、「まっすぐ歩きなさい」と励まして下さるのです。

 

 二番の「大きな手」は、ペテロが水の上を歩いた時の歌です。彼が嵐の中、じっとイエスを見つめて水の上を歩いているうちは良かったのですが、突然の大きな波に目を奪われてイエスから目を離したとたんに彼は沈み始めます。その瞬間、イエスに助けを求めたペトロの手をイエスがその大きな手でしっかりと掴んで助けて、「私から離れずに歩きなさい」と言って下さったのです。

 

 三番の「広い心」は、復活の日の出来事です。イエスを見捨てて逃げた弟子達が隠れていた部屋の中に、復活の主が壁をすり抜けて入って来られ、「シャローム」と言われました。それは、「安らかに歩きなさい」という意味です。死んでもよみ返られる主、この方が共にいて下されば恐ろしい者は何もありません。

 今この主が私達と共にいて、「やさしい目で」、「大きな手で」、「広い心」で私達に「安らかに歩きなさい」と言って下さるのです。この素敵な賛美歌をぜひ歌ってみて下さい。

礼拝 受難週(4/14)の説教片々

      「二人の弟子」

         ヨハネ福音書19章38~42節

 

 イエスの死は空しい挫折のように見えますが、イエスの十字架上の、「成し遂げられた」という言葉は着々と実現しているのです。その第一歩がイエスの埋葬です。この場にイエスの12弟子は一人もいません。しかし神はここに2人の弟子を起こされます。それはアリマタヤのヨセフとニコデモです。この二人共にイエスの生前には自分達がイエスの弟子であることを公にはしませんでした。なぜなら彼らは身分の高い議員であり、イエスを十字架につけた側の人間だからです。もし仲間の議員達に明かしたら、激しい攻撃に逢い更にはその地位も財産も失うかも知れません。それが怖かったのです。

 ところがイエスの十字架の死と共に彼らの中に大きな変化が起こります。彼らは「イエスこそ私の王である」という確信を与えられたのです。ですから彼らはピラトにイエスを王として葬るために、遺体の引き取りを願い出ます。これは彼らがイエスの弟子であることを公にしたのに等しい出来事です。悪くしたら命さえ失うかもしれません。でも、イエスを「私の王とした」彼らに、もはや恐るべきものは一つもありません。ここから彼らのイエスの弟子として、本当の人生が始まったのです。

 イエスの死という挫折の影で新しい出来事が神によって始まります。神はイエスを十字架につけた側のユダヤ人指導者の中から新しい弟子を二人も起こされました。更にこの後、人の思いをはるかに越えた主イエスの敵の中から意外な弟子が起され、キリストの福音は全世界、地の果てまで宣べ伝えられるのです。イエスの願いはこうして着々と完成されてゆきます。

 

先週礼拝 レント第5週(4/7)説教片々    

   

  「成し遂げられた」    

       ヨハネ福音書 19章29~30節

 

 主イエスは十字架上で二つの言葉を語られました。それは「渇く」と「成し遂げられた」です。この二つは関連のある言葉なのです。普通人が「成し遂げられた」と言う時は、自分の計画したことが実現した時です。しかしイエスの願いはすべて実現することなく、十字架の上で潰されてしまいました。でもそんなイエスの最後の言葉が、「成し遂げられた」なのです。即ちイエスは死ぬ直前落胆しておられなかったということです。これは挫折するとすぐ絶望する私達にとって驚くべきことです。イエスの力の源はどこにあったのでしょう。

 それが「渇く」なのです。イエスは十字架の上で喉の渇き以上に、魂の渇きを覚えられました。いやイエスの人生は生涯にわたり、「神を渇き求める人生」でした。そのような人に神は常に答えて下さいます。「たとえあなたの人生が十字架で終わろうと、計画したことの実現を見ずに終わろうと落胆することはない。あなたは神を渇き求める人生を全うした。だから私があなたの人生を完成させる」。イエスはこの神の約束を信じました。ゆえに十字架の上で、「成し遂げられた」と言って息を引き取られたのです。そして神は約束通りイエスに復活の勝利をお与えになりました。私達の人生は、ただ「神を渇き求める人生」を全うするだけでいいのです。その時神が「私達の人生の完成」を引き受けて下さいます。ですから私達はこの世にあって挫折を恐れることなく、精一杯生きることができるのです。

 

礼拝 (3/31)説教片々    

  「ユダヤ人の王」    

       ヨハネ福音書 19章17~27節

 ユダヤ人指導者達は、イエスを無実と信じていたピラトを脅して彼にイエスを十字架につけさせました。このユダヤ人への仕返しのためにピラトは、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という罪状書きを3カ国語で書いて十字架上に掲げ世界中の人が読めるようにしました。この罪状書きを見たユダヤ人は「大嫌いなイエスが自分達の王とはとんでもない」とすぐにピラトに書き換えを要求しますが、ピラトは取り合いませんでした。神はこうしてピラトを用いて「イエスこそ王」であることを、世界中に知らしめたのです。

 またイエスの十字架の下では、兵士達が受刑者の着物をくじで分けていました。彼らは神に無関心でしたが、彼らの姿は詩編の中の預言の言葉そっくりであり、このイエスの受難が単なる偶然の出来事ではなく、預言の成就であることを示しているのです。またイエスの下着が元来大祭司の着る特別な作りであったことも、イエスが王としての権威を持っていたことを示しています。

 そしてイエスは死ぬ間際に、自分の愛弟子に母マリアを託します。それは母を信仰に導くためでした。かつてイエスを全く理解できなかった母マリアと更に弟妹も信仰者とされてゆきます。

 このイエスの十字架の場面からわかるのは、迫害者が現れるという最悪の場合でも、神は「イエスは主である」ということを、一歩もゆずらないということです。人間の計画が行き詰ったような時でも、神の導きは、確かにあるのです。もし私達が苦しい状況の中にあったとしても、「私の王はイエスである」と信じるならば、私達が恐れる者は、この世に、神をおいて他にいないのです。

 

礼拝(3/24)説教片々    

   

  「十字架への道」    

       ヨハネ福音書 19章1~16a章

 

 この時代、ローマ総督ピラトは思いのまま人を裁くことができました。彼は「イエスは無実である」と3度も言い、イエスを釈放しようと努めましたが、結局実現しませんでした。それは彼がイエスを訴えてきたユダヤ人指導者達の脅しに屈したからです。

 イエスの周りにいる人間は皆同類です。人々を神に導くはずのユダヤ人指導者達も、人を正しく裁くはずのローマ総督も、結局一番大切なのは自分の地位であり、それを守るために神より人を恐れたのです。その結果、神の子を殺すという人間の歴史始まって以来最大の罪を犯します。しかしその先に待っていたのは、彼らが一番守りたかった地位や命も失うという悲劇でした。今この裁判で一番惨めなのはイエス一人のようですが、本当にみじめなのは、神よりも人を恐れて罪を犯して滅んでゆく人間の方なのです。

 しかし聖書は、「こんな罪人のために神が用意して下さった救いの出口がある」と言うのです。イエスに十字架刑が言い渡された時間と、次の祭りの日に人々の罪を負わされて殺される「贖いの子羊」が神殿に連れて来られる時間が、まったく同じだったのです。「そ届いています。れは過越の祭りの前日の正午であった」。神はこの時、罪深い人間に怒りを発するのではなく、十字架の上の愛するわが子の上にその怒りを発することを決断されたのです。そこまでして神はこの弱い私達を罪から救い出して下さったのです。聖書は、人を恐れて滅びの道をつき進む私達に、今罪悔い改めて神に帰れと、叫んでいるのです。

 

礼拝(3/17)説教片々    

   

  「罪人の頭、バラバ」    

        ヨハネ福音書 18章38~40節

 

 ローマ総督ピラトはイエスが無罪なのを知っていました。しかしユダヤ人はピラトの意見を受け入れません。そこでピラトは十字架刑に反対したものの、ユダヤ人を納得させるために一つの提案をします。それが「過越の祭の折、毎年一回行なわれる恩赦をイエスに与えたらどうか」というものでした。これで一応ユダヤ人の顔を立ててイエスを有罪扱いにし、同時にピラトの考え通りイエスを釈放してやれると考えたのです。ところがユダヤ人はピラトの言葉を逆手にとって、「恩赦をバラバに」と叫び出すのです。実はバラバこそ真のローマ帝国への反逆者でした。こうしてピラトはユダヤ人の声に負け、重罪人バラバを釈放し、無罪のイエスを十字架につけるという過ちを犯したのです。

 聖書を読むとバラバにそっくりな人が出てきます。それはパウロです。彼はキリスト者を迫害し殺すという、神の前で最も重い罪を犯しました。後に彼は自らを、「罪人の頭」と名のります。でもそんな自分の重い罪をイエスが身替わりに十字架で負って下さったことを知って喜んで主に従う者となりました。

 イエスの命と引き替えのバラバの釈放こそパウロやそれに続く私達の救いの一番手だったのです。神は不思議な方です。ご自分の栄光ある働き手をこの世のトップにいる者の中から選ばず、むしろ逆にこの世の

どん底にいる多くのバラバ達の中から選ばれ、その任を託されました。それがこの世の教会なのです。

 

礼拝(3/10)説教片々    

   

  「真理とは何か」    

        ヨハネ福音書18章28~38a節

 

 イエスはユダヤ人に捕らえられ尋問のためにローマ総督ピラトの前に立たされます。その時ピラトは後生に残る有名な問いかけをイエスにします。それは、「イエスは王なのか」と「真理とは何か」です。この二つの問いにどう答えるかによってその人の人生は全く違ってくるのです。

 イエスを殺そうとするユダヤ人指導者にとって、イエスが王であるはずがありません。ゆえに彼らは神に忠実に律法を守っているつもりでも、逆に神の子を殺すという大罪を犯しても気付かないのです。彼らには、「真理が何か」が全くわかっていません。同じくピラトも、この重大な二つの問いかけをしたにもかかわらず、それに対して答えを得ようとしなかったがゆえに、滅びの人生を歩みます。

 「真理とは何か」。この問いに対する答えは、目先のことしか見えない人間の目では知り尽くすことができません。しかし聖書はこう答えます。「あなたの王をイエス・キリストに定めなさい」。この方こそ真理を証しするためにこの世に来られたのです。この方に問い、この方に従う人生を歩む者は必ず、今直面している出来事の真理を見いだすことができる。みじめな罪人の死としか見えなかった十字架が、今や世界の人を救う光り輝く救いの道になったように、今あなたのかかえる出来事が「イエスを王とする」ならば、栄光に輝く神の国へつながっていることが必ず見えてくる。

 

礼拝(3/3)説教片々    

   

  「ペトロの挫折」    

        ヨハネ福音書 18章25~27節

 

 ペトロが3回も、イエスを否認した出来事は4つの福音書すべてに出てきます。彼はこの失敗の直前まで自分自身に大きな自信を持っていました。彼は最後の晩餐の席でイエスから、「あなたは今私について来ることができない」と言われて、「いや私だけは、命を捨ててもついてゆきます」と答えます。その言葉通り、ペトロはイエスが逮捕されたあとをついて敵の大祭司の庭にまで入り込みます。ところがここで回りにいた人々から「お前もイエスの弟子の一人だろう」と追求されて、3回も「イエスを知らない」と言ってしまうのです。しかしこれはすでにイエスに予告されていたことです。にわとりの鳴き声と共に彼はイエスの予告通りの裏切りをしている自分に気付かされます。これは彼にとって人生最大の挫折でした。この時彼の中で絶対大丈夫だと思っていた自分自身への自信が、粉々に崩れ去ったのです。でも彼はそれで終わりではありませんでした。この後、彼は自分の力で立ち上がるのではなく、神の霊が与えられる時まで祈って待ちます。そしてその時が来ます。その時ペトロは、イエスの弱さとしか思っていなかった十字架の死が、「私のため」であったことを知ります。この愚かな私を赦すためにイエスは死んで下さった。この時彼は深い感謝と喜びの内に再び立ち上がるのです。

 人間の挫折。でもそれで終わりでないと聖書は語ります。むしろそこが十字架のイエスと出会う恵みの場所に神が変えて下さるのです。

 

礼拝(2/24)説教片々    

   

  「進み出るイエス」    

        ヨハネ福音書 18章1~11節

 

 イエス一行は最後の晩餐の後、ゲッセマネの園へ向かいます。この園でイエスの逮捕が行なわれます。何とイエスを捕らえようとやって来たユダヤ人の先頭に立つのは、イスカリオテのユダです。彼らは自分達の後ろにローマ兵600人も従えています。彼らが恐れているのは、イエスではなく群衆です。彼らは真に恐れるべき方はだれなのかを知りません。

 この時、暗闇の中でイエスを捜し回るユダヤ人達に対してイエスご自身が進み出て、「私である」と名乗りを上げると、思わぬことが起こります。ユダヤ人とローマ兵全員が後ずさりして地に倒れたのです。この時、イエスの言われた「私である」という言葉は、「私こそ神の子、イエス・キリスト、神に遣わされた者である」という意味であり、その言葉が神の力をもって働いたのです。ユダヤ人は群衆を恐れましたが、本来恐れるべきはイエスなのです。彼らはイエスを見くびりました。

そしてもう一人イエスを見くびったのが、ペトロでした。彼は自分の力でイエスを助けようと剣を振り回し自らに危険を招いてしまいます。私達もイエスを見くびり、イエスの力に期待しない時、自分で何とかしようと走り回り、結局自分を追いつめるようなことをしているのです。しかしこの時ペトロを守られたのはイエスでした。イエスは更にイエスを見捨てた弟子達すべてとイエスを捕らえようとしたユダヤ人やローマ兵そしてイエスを見くびる私達人間すべての罪を滅ぼすために十字架につかれたのです。

 

礼拝(2/17)説教片々    

   

  「霊と力の証明」    

 

       Ⅰコリント書 2章1~15節 

 かつてパウロがコリントで伝道を始めた時、ユダヤ人の激しい迫害に会い、彼はすっかり衰弱し恐れと不安に取りつかれましたが、聖霊の助けを受けて再び立ち上がり異邦人伝道に向かいました。当時ローマ帝国はギリシャ文化が栄え様々な宗教があり、そんな中で彼は人間の雄弁さには限界があることを知っていました。しかし多くの人に理解されなくても、福音は「神の秘められた計画」であることを彼は信じていました。なぜなら福音は、人間の力で生み出したものではなく、むしろこの世の人が全く勝ちを認めない、「十字架と復活」の出来事から始まったからです。ですからパウロはまず異邦人に対して、「優れた言葉の知恵を用いない」と決心しました。そのかわり彼は「霊と神の力」によって語りました。その言葉を聞いた人が、神の力によって信じるようになるためです。

 そして語る内容も、「十字架につけられたキリスト以外何も知るまい、語るまい」とここ一本に絞ったのです。福音の中心は、「十字架で出会って下さったキリスト」以外にはありません。ここをはずすと真のキリスト教でなくなってしまいます。今様々な意見が対立して分裂しているコリントの教会に対して、パウロは、自分がかつて語り、皆が一番大切にしていた「十字架につけられたキリスト」のもとに帰って来いと言うのです。皆の心が、この十字架のキリストから離れるとき、待っているのは混乱と分裂だけなのです。

 私達も人にあれこれ雄弁に語る必要はありません。むしろ、私達が弱さの中で、真剣に耳を傾けて聞いた十字架の言葉こそが、知恵によらない神の言葉です。そこに霊と神の力が働いてくださるのです。

 

礼拝(2/10)説教片々    

   

  「安心しなさい。わたしだ」  

       マタイ福音書14章22~33節

竹内 拓神学生

 聖書には多くの物語が掲載されていますが、登場者イエス様と弟子だけというものが少なくありません。この聖書箇所もその一つです。弟子たちが陥りがちな、イエス様についての誤解を解き、正しく理解させるための再教育をする場合に、往々にしてこのような状況設定がなされます。ところでイエス様はこの「湖上歩き」の箇所において、弟子たちに何を教えようとされたのでしょうか。この湖上での出来事を丹念に読んでいくと、次の点に気づかせられます。それは現代のわたしたちに向けられたものであるとも言えます。

①イエス様の指示に従って行動しても、多くの困難に遭遇することがある。②そのような場合、イエス様は「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と語りかけ、イエス様の方から手を伸ばして捕らえてくださる。③苦難や悩みの中で疑いが生じることがあっても、イエス様はそのような者の疑いを受け入れ、赦し、導いてくださる。④イエス様からの働きかけに積極的に対応できる者に対しても、また、十分に応答できない者に対しても、ひたすらイエス様を信じ続ける限り、等しく救いを与えてくださる。⑤どのようなスタンスに立とうが、イエス様のなさることをしっかり見つめていくならば、イエス様自身がわたしたちの信仰を育み、「本当にあなたは神の子です」という告白に至らせてくださる。

 このような導きと恵みを確信し日々歩ませていただきましょう。

 

 

礼拝(2/3)説教片々    

   

  「誇る者は主を誇れ」    

      Ⅰ コリント書 1章26~31節 

 パウロは分裂しているコリント教会の人々に、「あなた方の召された時のことを思い起こせ」と言います。彼らは意見は違っても召された状況は皆同じです。「知恵のある者、能力ある者、家柄の良い者」はほとんどいませんでした。彼らは奴隷の身分がほとんどで、社会的に見て無に等しい者ばかりでした。私達も同じです。神の前にあっては、皆罪人にすぎない弱い者です。ところが神は、教会にこのような弱い無に等しい者を集めて大きなご計画を成そうとしておられるのです。それはこの世の知恵のある者、力のある者に恥をかかせ、地位のある者を無力にすることです。神は無に等しい者を選ばれ力のある者が幅をきかせるこの世を逆転しようとしているのです。神のみ心は、たとえどんなに大きな困難が襲ってきても、互いに助け合い、だれ一人見捨てられない世界を造ることです。

 パウロは、互いの意見の違いにだけしか心を向けない教会の人々に対して、神が何のために力のない者を召されたのか、その壮大な神のご計画をはっきりと示したのです。でもそれは決して自分達の力で成せるものではありません。そのために必要なのは、自分の力を誇らず、「誇るなら主を誇ろう」と神にすべてをゆだねて、福音を語り続けることです。皆が、この神の壮大なご計画を成すために心を一つにして、福音を語り続ける時、神の力が働いて、私達を神のご計画へと着々と導いて下さるのです。これしか分裂から解放される道はありません。

 

礼拝(1/27)説教片々    

   

  「十字架の言葉」    

       Ⅰ コリント書 1章18~25節

 

 「十字架の言葉は、滅んでゆく者にとっては愚かなものですが、私達救われる者には神の力です。」これを聞いた当時のユダヤ人や異邦人がどれだけ驚いたか知れません。なぜなら十字架で処刑されたイエスを、「救い主」と呼ぶなど愚かなこととしか思えなかったからです。それはかつてのパウロも同じでした。ところがその彼が、復活の主と出会った時、この「十字架の言葉」の意味が突然わかったのです。

 第1に「十字架の言葉は愚かです」。この世にキリスト程損をした人はいません。神の子として生まれ、罪人のために命を捨てるなど愚かとしか言いようがありません。しかしその「愚かさ」によってすべての人が救われたのです。これこそ、「人間より賢い神の愚かさ」です。パウロはイエスの「愚かさ」が自分の罪のためであると知った時、彼自身も「神の愚かさ」に生きるようになりました。私達は損をしないように生きています。しかし損をしない生き方だけが賢いのではないことを忘れてはなりません。第2に、「十字架の言葉は苦悩です」。ゆえに苦しみの中にある人を救うことができます。第3に、「十字架の言葉は愛です」。十字架の上で主はすべての人を愛し死なれました。第4に、「十字架の言葉は呪いです」。イエスがこの世の呪いをすべて引き受けて下さったがゆえに私達はこの世に恐れるべきものは一つもなくなりました。私達の救いは、十字架の「愚かさ」と「苦悩」と「愛」と「呪い」の中にあるのです。これが人間の知恵をはるかにこえた神の知恵なのです。

 

礼拝(1/20)説教片々    

   

  「心を一つに」    

    Ⅰ コリント書 1章10~17節

 

 コリント教会はいくつもの問題をかかえていましたが、パウロが一番に取り上げたのは、「心を一つに、思いを一つにして固く結び合いなさい」ということです。教会にとって一番大切なことはこの一事に尽きます。今この教会は、これが見えなくなっているのです。彼らは教会でだれが一番偉いのかで、4つに分裂しています。この教会を建てたパウロ、すばらしい説教をしたアポロ、イエスの直弟子ケファ、

即ちペトロ、そしてキリスト。それぞれの党を作ったのです。分裂は人間につきものです。なかなか一つにまとまりません。原因は、「皆が勝手なことを言うから」です。自己主張のみ強く、他者の言い分を聞こうとせず、対話が成り立たないのです。これに対してパウロは、首謀者がだれかなどという犯人捜しを一切しません。そうではなくて、「本来キリストとは何なのか」という一点にだけ的を絞って話しを進めてゆきます。

 4つの党名を見ると、パウロとアポロとケファとキリストが同列に並んでいます。パウロは教会に問います。「キリストは幾つにも分けられてしまったのか」。いやキリストは一つです。キリストとは、十字架で私達の罪のために死んで下さったただ一人の方です。パウロもアポロもケファもこの方の使者にすぎません。教会の中にキリストの十字架以上に人の目をひくものがあってはならないのです。「キリストの十字架」これこそが教会の力の源です。ここに教会が心を一つにし、思いを一つにする時、大きな力を発揮します。

 

 

礼拝(1/13)説教片々    

   

  「神は真実な方」    

   コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章1~9節

 コリントの信徒への手紙は、様々な問題をかかえたコリント教会へ、使徒パウロが忠告や励ましを送ったものです。パウロはこの教会の人々が自己主張が激しく、倫理的にも乱れていることを知りつつ、敢えて「神の教会」と呼びます。パウロの信じる「神の教会」とは、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々の集い」です。この「聖なる者」というのは、人間の側の特質ではなく、「神がご自分のものとされた人」という意味です。神は主イエスが愛した人すべてをご自分も愛し、ご自分のものとされたのです。ゆえに「神が愛した教会」には、何一つ条件がありません。どんな人が居てもいいのです。ただしこの主イエスとの結びつきを忘れると、教会は大混乱に陥るのです。

 教会は主イエスと堅く結ばれている時、この世の常識から解放され神の常識に生き、新しい力をいただくのです。その時教会は、「あらゆる言葉と知識においてすべての点で豊かにされる」のです。教会では人を生かす本物の言葉と知識が語られるようになります。それを聞いた人は、主が目の前に現れるがごとくに感じるのです。教会がそのような言葉を語るために大切なことが二つあります。第一は、「主は最後まで私達をしっかり支えて下さる」ことを忘れないこと。一人でがんばるのではありません。第二は「主は終わりの日に私達を完全な者として下さる」のです。私達はこの世では不完全です。完成は終わりの日に主が与えて下さいます。神は真実な方です。この二つの約束を果たして下さることを信じて主と共に生きるのです。

 

 

新年合同礼拝(1/6)説教片々    

   

  「エジプトからの帰国」    

        マタイ福音書2章19~23節

 

 クリスマスに生まれた救い主イエスは、誕生直後ユダヤの王ヘロデに命を狙われ、ヨセフとマリアに守られて遠いエジプトに逃げ、そこで育ちました。しばらくして夢で、「ヘロデ王は死んだ。イスラエルへ帰りなさい」とのお告げを受けたヨセフは家族を連れてイスラエルに帰り、ナザレの町に住みました。イエスのエジプト暮らしとイスラエルへの帰国はまさにモーセの人生をなぞるものです。ユダヤ人にとってイスラエル民族に律法を与えた人物としてモーセに優る者はありません。しかしマタイ福音書は、イエスこそモーセに優る真の救い主だと言うのです。

 モーセはイスラエル民族を奴隷とする世界最強のエジプトの王ファラオからイスラエル人を助け出し、乳と蜜の流れるカナンの国へ導きました。一方イエスは、人間を罪の奴隷とする世界最強のサタンの手からすべての人を助け出し、神の国へ導きます。サタンは目に見えませんが、私達の心の中にスッと入って私達の心を神から引き離そうとします。そして私達を罪の奴隷にするのです。このサタンの鎖は強く人間の力では決して切れません。しかしイエスに助けを求める者を神は見捨てません。神はこの決して切れないサタンの鎖をイエスの十字架の命をもって断ち切って下さり、私達を神の国に住む者と認めて下さいました。イエスこそモーセに優る真の救い主です。新しい一年も、この主イエスと共に歩む人生に、すべての人を招いて下さいます。

 

礼拝(12/30)説教片々    

   

  「エジプトへの逃避」    

        マタイ福音書2章13~18節

 

  イエスの誕生物語は、イエス一家のエジプト逃避へと続きます。マタイ福音書はイエスとモーセを比べてイエスこそモーセを越える真の救い主であることを描いています。ですからイエスはモーセの生まれたエジプトへ旅立ちます。そのきっかけはユダヤの王ヘロデの怒りです。「新しい王が生まれた」と聞いたヘロデは不安の余りベツレヘム一帯の2歳以下の男の子を殺させます。その時多くの母親が激しく嘆き悲しんだのです。このような人間の大きな罪から引き起こされた悲劇の中から人を救い出す力はあるのでしょうか。「ある」と聖書は明言します。「泣きやむがよい。あなたの苦しみは報われる。あなたの未来には希望がある」(エレミヤ31:16~17)。そのために神はかつてエジプトでモーセを立て、今神の子イエス・キリストをこの世に送られたのです。二人はそれぞれの時代の王の手からのがれ、成長し、救いを成就するのです。

 ゆえに今私達はこの暗黒の世界に、神がイエス・キリストを通して最後に必ず勝利されることを信じることができます。私達に解決不可能な出来事が起こっても、私達の歩むべき道は一つです。それはヨセフの生き方です。彼の人生は平穏無事な人生とは違います。しかし彼は神の救いの約束を信じ、その手からイエスを決して離さずに歩み通しました。神のなさろうとしておられることを、信じて従って行くことこそ、信仰者にとって力ある行動の基本なのです。

 

 

 

先週クリスマス礼拝(12/23)説教片々    

   

  「星に導かれて」    

        マタイ福音書2章6~12節

 

 ユダヤに新しい王が生まれたことを星によって知った東の国の占星術の博士達が再びベツレヘムに向かって出発すると、東方で見た星が彼らに先立って進み、幼子のいる場所で止まります。博士達を救い主に導いたのは、星と聖書の言葉です。神を信じて従う者にはみ言葉だけでなく、地上のしるしが伴います。それを見た博士達は喜びにあふれます。私達も本日の洗礼式において神の救いのしるしを見せていただき、博士達と同じような大きな喜びをいただくのです。

 しかし博士達が導かれたのは立派な宮殿ではなく、貧しい大工の家でした。新しい王イエスは、この世に最も貧しく小さな者として生まれたのです。なぜなら神は、そのような所に住む者を救おうとされたからです。イエスは、この世が「小さい」と言って投げ捨てた者を、「小さくない」と言って拾い上げて下さるのです。ですから私達はがんばって自分を大きく見せる必要はありません。ありのままの小さな姿で博士達のようにイエスの前にひれ伏せばいいのです。その時イエスが私達を「小さくない者」として下さるのです。

 博士達は最後にイエスの前に黄金、乳香、没薬を献げます。私達も同じように真の救い主に出会う時、自分の持つ最大のものを喜んで主にお献げするのです。賛美歌21-512にこうあります。「主よ献げます、私の命。主よ献げます、私の手足。主よ献げます、私の声を。主よ献げます、私の愛を」主にすべてを献げておしくはないのです。なぜなら私の中に主が住んで下さるからです。

 

 

  アドベント第3主日礼拝(12/16)説教片々

     「東の博士の来訪」

         マタイ福音書2章1~6節

 イエスの誕生に伴い二組の人物が登場します。第一はユダヤの王ヘロデ、第二は遠い国から来た占星術の博士達です。マタイ福音書は、イスラエル民族に律法を与えた偉大なモーセとイエスを比べて、イエスこそモーセを越える真の救い主であることを伝えようとしています。そのためにモーセの出エジプト物語とイエス誕生物語を並べて描くのです。

 遠い東の国の占星術の博士達は、星によってユダヤに新しい王が生まれたことを知り、この王を表敬訪問するためにやって来ますが、エルサレムまで来て星は消えてしまいます。道に迷った彼らがヘロデ王に新しく生まれた王の居場所を尋ねた時、ヘロデの中に大きな不安が生まれます。その時かつてファラオが赤ん坊のモーセを殺そうとしたように、ヘロデの中に赤ん坊のイエスを殺そうとする思いが生まれたのです。

 さて「新しい王の居場所を捜せ」といヘロデの命令で、祭司長や律法学者はミカ書に預言の言葉を見つけます。それは「ベツレヘムに新しい王が生まれる」というものです。博士達は喜んでベツレヘムへ向かいます。しかしこの預言を見つけた祭司長と律法学者は全く動こうともしません。いくら聖書の言葉を学んでも多くのことを知っていても、み言葉を信じ従わなければ救い主には導かれません。信仰者は自分の努力で救われるのではありません。救い主はもうすでにお生まれになって私達を招いて下さいます。その招きに応えてあらゆる努力を惜しまずに主のもとへはせ参じるのです。

 

アドベント第2主日礼拝(12/9)説教片々    

   

  「イエス・キリストの誕生」    

 

         マタイ福音書1章18~25節

 

 マタイ福音書はユダヤ人のために書かれました。その彼らが一番大切にしていた律法に忠実に生きたユダヤ人の代表がヨセフです。彼にとって婚約中に妊娠したマリアは、姦淫の罪を犯したとしか思えません。彼の取るべき行動は、律法に従って彼女を死刑にするか、離縁して彼女を助けるかどちらかです。ところがここでヨセフの夢の中に天使を通して神が介入します。天使が言ったのは、アリアの死刑でも離縁でもありません。「恐れずにマリアを迎え入れなさい」。即ち「律法を破れ」と言ったのです。これは正しい人ヨセフにとって一番しにくいことです。しかし続けて天使は言います。「この子は自分の民を罪から救う」と。

 これこそイスラエル民族が長い間求めてきたものです。彼らが他国に支配され苦しんで来た原因は、かつて先祖が神を捨てたからです。聖なる神は、罪ある人間とは共にいて下さいません。そんな彼らが救われる道は、神に赦され神に帰って戴くことだけです。

そのために律法を守って正しく生きることに励んできたのです。でもそうではなかった。今神はヨセフに、「律法を破れ。そしてマリアとその子を受け入れよ。そのことによって民の罪は赦される」と言うのです。天使はここで律法主義を越えた神の救いのみ業をヨセフに告げます。ヨセフは天使の言葉に従います。このヨセフの服従によって今や世界中のイエスを信じる人々の人生は、「インマヌエル、神は我々と共におられる」人生なのです。

礼拝(12/2)説教片々    

   

  「神の救いの歴史」    

       マタイ福音書1章1~17節 

 マタイ福音書のキリスト降誕物語は、当時全世界を支配するローマ皇帝アウグストゥスとユダヤの片隅の名もないイエスとどちらが本当の救い主なのかを、ユダヤ人に伝えるために書かれました。マタイはその初めにイエスの系図を持って来ます。旧約聖書をよく知り、神の救いを待ち望むユダヤ人にとって、この系図こそイエスが真の救い主であることの証明です。この系図は信仰の父アブラハムから始まり、12部族のユダ族のダビデに繋がり、そしてイエスに至っています。イエスはダビデの家系から出る救い主であるという預言にぴったりです。

 マタイは系図を3つに分けます。第1のアブラハムからダビデまでの時代、イスラエルはカナンでの「生活が安定して神を捨て」、第2のダビデからバビロンまでの時代、「国情が不安定になると神を捨て」、第3のバビロンからキリストまでの時代、ユダヤ教の「まじめな律法主義に生きてキリストを十字架につけ神を捨てた」のです。人間の力で信仰を守り通すことは不可能です。しかし神はこんなイスラエルを捨てません。マタイはそれぞれの区分を14代としています。14は完全数7の2倍ですから、全くの完全です。こんな不完全な民に神は完全な救いを与えます。自分で自分をどうすることもできない人間のために神はイエスを送り、その十字架の死によってすべての罪を赦されました。これによって全世界に全く新しい信仰の時代が始まったのです。聖書の中で系図が出て来るのはキリストで終わりです。イエスこそ歴史の頂点なのです。

 

収穫感謝日合同礼拝(11/25)説教片々    

   

  「分かち合う豊かさ」    

 

        レビ記19章9~10,34節

 

 収穫の秋はおいしい物であふれます。そんな恵みを前にして、神は私達にお命じになりました。「穀物を収穫する時は、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない」。なぜならこれらの食物は、自分の畑を持つことのできない貧しい人や寄留者のために取っておくものなのです。かつてイスラエルもエジプトで寄留者として苦労した民です。だから神は言われます。「あなたたちのもとに寄留する者をあなた達同様に扱い、自分自身のように愛しなさい」。神は、私達が働いて得た物を独り占めせず、困っている人々にも分け与える愛いの満ちた世界を造ろうとされているのです。

 「ルツ物語」を読むと、モアブ人の嫁ルツは、しゅうとめのナオミとの貧しい生活を支えるために落ち穂ひろいに出かけます。ルツはそこでその畑の持ち主ボアズと出会います。そして後に彼と結婚し、オベドという子を与えられます。そしてこのオベドの子孫がエッサイ、ダビデと続き、更にダビデの子孫として私達の救い主イエス・キリストが誕生するのです。ボアズがルツに親切に落ち穂ひろいをさせてくれたことによって、私達に救い主が与えられました。

何という恵みでしょうか。私達がこの世界に住む人々と、神の愛と恵みとを分かち合う時、困っている人だけでなく、私達自身も神から救いをいただくことができるのです。

 

召天者記念礼拝(11/18)説教片々    

   

  「民の代わりの一人の死」    

                                                                                                                ヨハネ福音書 18章12~22節

 

 亡くなった方を「眠りについた」と言いますが、それは永遠の眠りではなく、いつか終わりの日が来て新しい神の国が始まる時、死んだ人すべてが再び起こされ、神の前で審かれるのです。イエスを捕らえたユダヤ教指導者達も、最後の審判のあることを堅く信じていました。人間は神に審かれる存在であって、決してその逆ではありません。しかしこの時、イエスを捕らえた元大祭司と現大祭司は二度に渡りイエスを審き、その下役はイエスを平手で打ちます。本来神から審かれるべき人間が、神の子を審き、なぐりつけるとは何たる本末転倒。更にイエスの弟子ペトロは、大祭司の庭で思わず、「私はイエスの弟子ではない」と言ってイエスを裏切ります。結局イエスを信じる者も信じない者も皆、自分が今何をしているのかわからない罪深い者です。聖書は、本来、最後の審判の時、神のみ前に立てる者など一人もいないと言うのです。

 しかし神はあきらめません。神は人間より上手です。イエスを無実の罪で殺そうというユダヤ人の企みを逆手にとって,人間の罪を十字架のイエスにすべて負わせ、その死によってすべての人の罪を赦して下さったのです。自分が何をしているかわからない人間を救う道はこれしかありません。私達神のこの人間の想像をはるかに越えた深い愛と,救いの手段に圧倒されるだけです。その結果、私達は人生で最もきびしい最後の審判の時、神の前にこの弱い罪のままの姿で立つことができるのです。

 

礼拝(11/11)説教片々    

   

                                                                     「すべての人を一つに」    

                                                                                                                ヨハネ福音書17章20~23節

 

 イエスの最後の祈りは、「弟子達のためでなく、彼らの言葉によって私を信じる人々のため」でした。イエスは後の時代の教会のために祈って下さったのです。何とうれしいことでしょう。イエスは私達のために、「すべての人を一つにして下さい」と神に祈られたのです。でもこれは教会だけでなく、私達の家庭や世界の国々にとっても、とても大切なことです。なぜなら、「分裂して争う家は立っていることができない」からです。家庭や社会の中に居場所を持たない孤立した人間は、たとえ能力があっても「悪魔のえじき」になりやすいのです。私達が悪の力に負けないためには、イエスが祈られた「すべての人が一つになる」以外にありません。

 しかし性格も考え方も違う人間同士が一つになることはむずかしいことです。そんな時私達にできることは、自分の力の限界を神の前に認めて祈ることです。本来祈りの姿勢は両手を開いて天に向かってあげるギブアップの姿です。その時、天に向かってあげたその空(から)の手に、神が救いを与えて下さるのです。イエスは祈られます。「神と私が一つであるように、教会も一つになるために、あなたがくださった栄光を私は彼らに与えました」。イエスは私達が一つとなるために、私達に神の栄光をくださいました。今分裂だらけのこの世を救うため、神は私達のように小さい者を選んで神の栄光を与え、この力をもって私達が一つとなることにより、この世に神の愛の力のすごさを証しする者とされたのです。

 

 礼拝(11/4)説教片々    

   「み言葉うけて」    

        ヨハネ福音書 17章⒕~19節

 イエスは最期の時、弟子達の為に祈りました。「私は彼らにみ言葉を伝えました」と。ここでイエスが言うのは「弟子達に良い教訓を教えました」という程度のものではありません。聖書の中で「み言葉を伝える」という場合は、もっと大きな意味があります。イザヤ書の中で神はこう言われます。「私の口から出る私の言葉は、むなしく私のもとに戻らない。それは私の望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たす」。まさにこの言葉通り、イエスが病人に向かって、「あなたの罪は赦された」と言った途端に、この言葉が生きて力を持って働き、病人は癒やされたのです。イエスが弟子達に、そして私達に伝えた神のみ言葉は、このように生きて、力を持って、働くものなのです。私達がこのことを信じて、人に伝える時、み言葉自身が動き出し働くことを目の当たりにすることが出来ます。

 しかし一つだけ忘れてはならないのは、神のみ言葉を受け入れて生きる時、この世から憎しみを受けるということです。この世は自分達と同じでない者を排除しようとします。そんな弟子達の戦いをイエスはご存知の上で、神に祈られました。「彼らを世から取り去るのではなく、悪い者から守って下さい」。イエスはこれから十字架にかけられ殉教の死を遂げられますが、イエスは弟子に殉教を強いたりされません。むしろこの世に留まってみ言葉を伝える使命が果たせるように、悪の攻撃から守って下さいと祈られたのです。いま、私達もこのイエスの祈りに守られているのです。

 

 

礼拝(10/28)説教片々    

   

                                                                    「永遠の命とは」    

                                                                                                             ヨハネ福音書 17章1~5節

 

 イエスの最後の祈りは、「父よ時(・)が来ました」で始まります。この時(・)とは、十字架の死の時(・)です。人から見たら何ら神の子らしからぬ、むしろ敗北の時(・)です。しかしイエスはここで無念の祈りをしているのではなく、むしろご自分が十字架につけられることによって神の栄光が現わされると祈るのです。キリスト教は逆転の神学です。ユダヤ人がイエスを殺して喜ぶその裏で、イエスを信じるすべての人の罪が赦され、そのしるしとして神はそのすべての人に永遠の命を与えるという驚くべき出来事が起こるのです。

 かつて多くの権力者が、自分の力や財力を尽くして不老不死を手に入れようとしました。しかし人間の力でそれを手に入れたものは一人もいません。ところがイエスは、すべての人に永遠の命を与えることができるのです。イエスにこれができるのは、イエスが罪深い失敗だらけの私達を、ご自分の命と引き替えに愛して下さったからです。その愛があるから神は私達に永遠の命を与えて下さったのです。実際永遠の命がどういうものかはわかりません。ただ一つだけ確かなことは、私達はイエスの愛と神の愛を生きている時も、死んでからも永遠に受け続けるということです。

 イエスは言われます。「永遠の命とは、神とイエス・キリストを知ることです」。「神とイエスを知る」ということは、神とイエスがどんな人をも永遠に愛して下さることを知ることです。これを心で知って信じた時、私達の内に永遠の命が与えられるのです。

 

礼拝(10/21)説教片々    

   

                                                              「私は一人ではない」    

       ヨハネ福音書 16章25~33節 

 イエスは弟子達への別れの説教の中で、ご自分の身分を明かします。すると弟子達は、「あなたの言うことは何もかもわかりました」ときっぱりと答えます。しかしこれは彼らの思い違いです。イエスの言葉は、聖霊が降らないと人間には理解できません。彼らが何もかもわかったつもりになったのは、イエスへの絶大な信頼と尊敬があったからです。でもそれだけでは信仰には至りません。なぜならこの後、イエスの十字架の出来事を見たとたん弟子達のイエスへの信頼など木端微塵に消え、我身は自分で守るしかないと、イエスを捨てて逃げてゆくのです。

 しかしイエスは、そんな人間の弱さを既にご存知です。この別れの説教の最後でイエスは信仰にとって何が大切なのかを教えます。それはたった一つのことです。32節でイエスは、「私は一人ではない」と言われます。これこそが信仰の完成に至る道です。弟子達は我身に危険が迫った時、イエスを捨てて逃げます。しかしイエスは、十字架の危険が迫った時逃げませんでした。それは決してイエスの信仰が強いからではありません。ただ一点、「私は一人ではない。父なる神が共にいて下さる」ここに集中されたからです。その時初めて十字架に向かってゆく勇気が与えられました。イエスの弟子への最後の言葉は、「あなた方は世で苦難がある。勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」。この主と共に私達は歩んでゆくのです。信仰の道は一人では歩めません。しかし復活の主が共にいて下さる時、私達は何も恐れずに進んでゆけるのです。

 

 礼拝(10/14)説教片々    

   

  「世に憎まれる主」    

       ヨハネ福音書15章18~27節

 

 イエスはご自分の最後を前にして弟子達に、「愛が一番大切だ」と繰り返し教えました。しかしその後で、「あなた方は世に憎まれる」と言われます。実際イエス亡き後、キリスト者はユダヤ人からもローマ皇帝からも迫害されます。イエスはそのような迫害が起こる前に前もって弟子達に語ります。それは信仰者が突然の迫害にあっても、それを乗り越えていくためです。

信仰者が出会う迫害は、神の罰でも、神に見捨てられたからでもありません。むしろ反対で、イエスと一体となっているから人々に憎まれるのです。だから覚えておくのです。「僕は主人にまさりはしない」というイエスの言葉を。私達が味わうこの世のどんな苦しみも主イエスの十字架の苦しみに勝るものではありません。そしてこの世で最も深い苦しみを知っておられる主は、様々な出来事で悩み苦しむ私達の側にいて、いつも深い愛をもって慰めて下さいます。

 この世の人がなぜキリスト教を迫害するのか、その理由は一つです。それは人々が、この深い神の愛を知らないからです。信仰には忍耐が必要です。この迫害の中で信仰者がすべきことは一つです。この深い神の愛をイエスを通して知らされた者は、迫害する者を憎むのではなく、この人々が神の愛を知るように祈り続けることです。神は必ず祈りに答え、聖霊を送って下さいます。その聖霊が人々の上に働いて、イエスが真の救い主であることを明らかにして下さる時が来るのです。

 

 礼拝(10/7)説教片々    

   

   「友なるイエス」    

 

       ヨハネ福音書15章12~17節

 

 「友のために自分の命を捨てること。これ以上に大きな愛はない」。即ち、「人のために生きることこそ人生最大の意味だ」とイエスは弟子達に教えます。まさに十字架で死ぬイエスの姿がここにあるのです。人のために生きるとは、「捨てる人生」です。そして最後に残るのは愛なのです。しかしイエスは、「捨てる人生」を選んだ弟子達を決して見捨てません。「私の命じることを行うなら、あなた方は私の友である」と言われます。救い主が友であるなら従う者に恐れはありません。

 更にイエスは、「あなた方は友であって僕ではないのだから、父から聞いたことをすべて知らせた」と言われます。人間が神のご計画を前もって知ることができるとは何という驚きでしょうか。なぜなら神のご計画を聞いた時、僕は文句を言わず服従するだけですが,友であるということは、神が愛と正義の方であると信じて切に祈るならば、神はみ心を変えて下さるということです。神はそこまで私達人間を信頼していて下さいます。しかし私達は、それに価する人間でしょうか。イエスはそんな人間の不安もご存知です。「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ」と言って下さいます。イエスが弟子や私達を選ばれたのは、私達が神の信頼に答えられない程小さく弱いからです。だからこそ今ただ私達を選んで下さったイエスの愛の内に生きればよいのです。その時、人のために生きる人生が始まるのです。

 

 

礼拝(9/30)説教片々    

   

                                                                          「イエスはまことのぶどうの木」    

 

                                                                                                                   ヨハネ福音書15章1~8節

 

 「私はぶどうの木、あなた方はその枝である」という言葉は、とても深い意味を持っています。イスラエル民族にとってぶどうは生活になくてはならない食物です。それと同様、神はこの民族を、「神の植えたぶどうの木」として愛されました。しかしこの民は神を裏切り続けました。即ちぶどうの木は、良い実を結ばなくなったのです。旧約聖書は、人間はどんなにがんばっても正しい人間にはなれないことを証ししています。そこから新約聖書が始まります。何と神は、この良い実を結ばなくなったぶどうの木ばかりのイスラエルを憐れみ、彼らの中に「まことのぶどうの木」として、ご自分のみ子を送られたのです。残念ながら、人間は一人では信仰の実がつけられません。イエスだけが神に喜ばれる信仰の実をつけることができるのです。だからイエスは言われます。「さあ、私に繋がりなさい。これからは私の父が農夫となってあなた方ぶどうの枝の世話をして下さる」。父なる神が私達イエスの枝となった者の世話をして下さるのですから、良い実を結ばないはずがありません。

 木の上に隠れていたザアカイにイエスは声をかけられ彼の家に泊まります。この時からザアカイはイエスの枝とされ、全財産の半分を人に施す愛の人に変えられました。彼の姿を見た周りの人々は、彼をほめるより彼をこのように変えられた神をほめたたえました。人が良い実を結ぶとは、神が大きくなって、自分は小さくなるということです。

 

 礼拝(9/23)説教片々    

「愛こそ力」

 

ヨハネ福音書14章15~17節

                                                                            

 イエス亡き後、弟子達は生きる目標をなくし、生きる気力を失います。イエスはそんな彼らのスランプを打開する道を示されます。「あなた方は私を愛しているならば、私の掟を守る」。「守りなさい」ではなく、「守る」のです。それでしか彼らの行き詰まった道は開かれないのです。「私の掟」とは、「互いに愛し合う」ことです。イエス亡き後、弟子達の間には必ず、次のリーダー争いが起こり、皆の心はバラバラになります。愛のない共同体には、本当の力はありません。なぜなら愛は人間の内から出てくるものではなく、神から来るものであり、愛のある所には神が共にいて、人間の思いをはるかに越える力を与えて下さるからです。

 弟子達は今、イエスを愛しています。しかしそれは彼らの中から出たものではなく、イエスが彼らを無条件で愛されたからです。彼らの愛は、イエスから来たのです。しかしその愛の源であるイエスがいなくなります。これは弟子達にとって最大の危機です。へたをすれば、彼らの中からイエスへの愛が消え、そのことによって神の力も消えてしまうかもしれません。しかしイエスは、「そんなことはさせない」と言われ、弟子達に弁護者を送って下さると約束されました。それは真理の霊という聖霊です。イエスの言われる真理とは、「愛がすべてだ」ということです。神は愛だからです。そしてこの真理の霊は弟子達の中に、そして私達の中に「イエスを愛する愛」を永遠に与え続けてくれるのです。その愛を与えられた者は、「イエスの掟」の中に生かされるのです。

 

 

 

礼拝(9/16)説教片々    

   

  「私は道であり、真理であり、命である」    

         ヨハネ福音書14章1~7節

 

 イエスが最後の晩餐の席で、弟子達が動揺するのを承知の上でご自分の死を予告したのは、彼らが後からイエスに見捨てられたと思わないためであり、立ち直る道を教えるためでした。イエスはご自分の死を予告した後、「心騒がせるな。神を信じ、私をも信じなさい」と弟子達を励まし、はっきりと約束されます。「私は父の家にあなた方のための場所を用意しに行く。そして必ず戻って来てあなた方を私のもとに迎える」。イエスは決して弟子達を見捨てません。一度 弟子達と離れ神の国で彼らの住む所を用意し、必ず戻って来て彼らを神の国に連れて行き、そこで一緒に暮らすのです。何とうれしい約束でしょう。私達も今この約束を信じ、主が再び来られる時を待っているのです。

 しかしこの時弟子達は、「この約束の意味がわからない」と言いました。でもそんな彼らに対してイエスは、「あなた方は知っている」と言うのです。即ち今わからなくても、いつかわかる日が来るとイエスは信じておられるのです。そしてその通り彼らに聖霊が降った時、すべてがわかったのです。

 私達も聖書の言葉や様々な出来事の意味がわからないことがあります。でもイエスはそれも分かる日が来ると言われるのです。ただしそれは自分の頭で考えてではありません。「私は道であり、真理であり、命である」イエスと共にこの人生を歩む時、私達の上に聖霊が与えられ、分からなかったことが分かるようにされ、更にイエスと共に神のおられるみ国へと導かれてゆくのです。

 

礼拝(9/9)説教片々  

   

   「新しい掟」    

        ヨハネ福音書⒔章31~35節

  これからイエスの別れの説教が始まります。その冒頭イエスは、「今や人の子は栄光を受けた」と言われます。この「栄光」と訳された原語「ドクサ」は、人が他の人を高く評価する場合は「名誉」と訳され、神が人を高く評価する場合は「栄光」と訳されます。今ユダヤ人のイエスへの評価は最低です。しかし人の評価とは反対に、神はイエスを高く評価され、「栄光」をお与えになるのです。イエスにとって大切なのは、人の評価ではなく神の評価だけです。人の評価は時代と共に変わりますが、神の評価は常に変わりません。結局神の評価を第一とする生き方こそ、最後に人からも高く評価されます。

 イエスは神から高く評価される生き方として「新しい掟」を弟子達に教えます。それはたった一つ、「互いに愛し合いなさい」です。この掟は、エレミヤ書の31章にある、「新しい契約」と対をなすと言われています。預言者エレミヤがバビロン帝国によって一度崩壊したユダヤの国民に、神の「新しい契約」を与えたように、イエスもこれから崩壊するイエスの共同体に「新しい掟」を与えたのです。「この共同体は一度崩壊しても終わりではない。かつて『新しい契約』を与えられたユダヤ国民が、再びエルサレムに神殿を再建し、新しい共同体が生まれたように、あなた方もたった一つの『新しい掟』を守るならば、神はあなた方を高く評価され、あなた方に『栄光』をお与えになる。その時、神と私とあなた方は一つに結ばれ、新しい共同体が生まれる」。その通りペンテコステの日に彼らの中から「教会」が誕生するのです。

 

礼拝(9/9)説教片々  

   

   「新しい掟」    

        ヨハネ福音書⒔章31~35節

  これからイエスの別れの説教が始まります。その冒頭イエスは、「今や人の子は栄光を受けた」と言われます。この「栄光」と訳された原語「ドクサ」は、人が他の人を高く評価する場合は「名誉」と訳され、神が人を高く評価する場合は「栄光」と訳されます。今ユダヤ人のイエスへの評価は最低です。しかし人の評価とは反対に、神はイエスを高く評価され、「栄光」をお与えになるのです。イエスにとって大切なのは、人の評価ではなく神の評価だけです。人の評価は時代と共に変わりますが、神の評価は常に変わりません。結局神の評価を第一とする生き方こそ、最後に人からも高く評価されます。

 イエスは神から高く評価される生き方として「新しい掟」を弟子達に教えます。それはたった一つ、「互いに愛し合いなさい」です。この掟は、エレミヤ書の31章にある、「新しい契約」と対をなすと言われています。預言者エレミヤがバビロン帝国によって一度崩壊したユダヤの国民に、神の「新しい契約」を与えたように、イエスもこれから崩壊するイエスの共同体に「新しい掟」を与えたのです。「この共同体は一度崩壊しても終わりではない。かつて『新しい契約』を与えられたユダヤ国民が、再びエルサレムに神殿を再建し、新しい共同体が生まれたように、あなた方もたった一つの『新しい掟』を守るならば、神はあなた方を高く評価され、あなた方に『栄光』をお与えになる。その時、神と私とあなた方は一つに結ばれ、新しい共同体が生まれる」。その通りペンテコステの日に彼らの中から「教会」が誕生するのです。

 

礼拝(9/2)説教片々    

   

  「ユダにパンを与えるイエス」    

        ヨハネ福音書⒔章21~30節

 

 最後の晩餐の席で、イエスは三度も弟子の裏切りを予告します。でも不思議なことに弟子達は最後まで裏切り者がユダだとは気付きません。それだけユダの心は仲間にもイエスにも完全に閉ざされていたのです。

 しかしイエスだけはユダの心の闇とその結末をご存知であるがゆえに、心が騒いだのです。イエスの動揺ぶりに、一人の弟子が裏切り者は誰かとイエスに尋ねます。するとイエスは、「私がパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えます。しかしイエスは皆が見ている前でユダにパンを与えませんでした。もし与えていたら皆ユダが裏切り者だと気付くはずです。イエスは皆の見ていない所で、愛情を込めたパンをユダにそっと渡したのです。そして「その心の闇を私に預け、私に帰って来い」と最後にもう一度呼びかけたのです。しかしこのイエスのやさしさと愛が、ユダにはイエスの弱さとしか写りませんでした。こうしてユダがパンを受け取った時、彼の心の中にサタンが入ったのです。

 ところがイエスの前で心の闇を守り通したユダは、結局自分の心の闇に耐えきれず、イエスを裏切るようユダに金を渡したユダヤ人指導者の所へ行って罪の告白をします。しかし彼らはユダの罪など引き受けてくれません。放り出されたユダは死ぬしかありませんでした。人の罪を引き受けられるのは、神の子イエスだけです。私達はこの方の所へ帰ってゆくのです。私達が聖餐式において、イエスからパンをいただくことは、人生で最も祝福された時なのです。

 

礼拝(8/26)説教片々    

  「互いの足を洗いなさい」    

        ヨハネ福音書 ⒔章12~20節 

 イエスが最後の晩餐の席で弟子達の足を洗ったのは、すぐ後に起こるイエスの十字架の死がただの敗北ではなく、イエスを信じる者すべての罪の赦しであることを、弟子達に先取りして教えるためでした。そしてイエスは弟子達の足を洗うと、「主であり師である私が、あなた方の足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗い合わなければならない」と言われます。即ち、イエスによって足洗われ罪許された者は、今度は自分が隣人の罪を赦し、互いに重荷を負い合って生きてゆくのです。このように神と隣人に結びついて生きる時、私達は本当にイエスと結びついていることになるのです。

 しかしこの生き方は人間の常識ではありません。その証拠に、イエスの選んだ弟子でさえこれを理解できませんでした。この時イエスは不思議なことを言われます。「『私のパンを食べている者が私に逆らった』(詩編41) という聖書の言葉は、実現しなければならない」。これは「自分に逆らう人によって、神の救いは成就される」という驚くべき意味なのです。まさにユダの裏切りがイエスの十字架に繋がり、私達の救いに至るのです。神のなさることは人の思いを遙かに越えています。そしてイエスは、最後に今イエスのしていること、言っていることが一つも理解できない弟子達に対して言われました。「事の起こる前に、今、言っておく。いつか聖霊が下った時、『私はキリストである』ことをあなた方は心から信じるようになる」。弟子達に、そして私達に聖霊が降る時、私達はイエスの示された生き方を少しずつ歩む者とされるのです。

 

礼拝(8/19)説教片々    

   

  「弟子達を愛し抜かれたイエス」    

        ヨハネ福音書 13章1~11節

 

 イエスの伝道は、最初に悪魔の誘惑から始まり、最後まで悪魔との戦いでした。悪魔は様々に手を変え、今度は弟子イスカリオテのユダの心の中に入ります。それに気付いたイエスは、悪魔に対抗すべく弟子の足を洗うという驚くべき行動に出ます。

 私達の本当の敵は血肉ではなく悪魔であることを常に念頭に置かれたイエスの武器は、愛だけでした。なぜなら、「愛は神から出るもの」だからです。愛のある所には、愛である神が働いて下さいます。だから強いのです。弟子の足を洗うということは、まさにイエスの愛の極みです。それは弟子一人一人に対し、「あなたのいい所だけでなく、あなたの一番汚れた所も受け入れるよ。あなたを丸ごと愛しているよ」というイエスの精一杯の思いでした。

 ところがこのイエスの洗足を見た瞬間、ユダはイエスを見限ったのです。愛は目に見えません。時に弱々しくさせ見えます。イエスはそのことを知っていました。ですから言われます。「私のしていることは今は分かるまいが、後で分かるようになる」。その通り、弟子達が復活の主に出会った時、この世で一番強いのは愛であることを知ったのです。そしてその後彼らは、このイエスの愛で愛し抜かれた喜びをもって、生涯このすばらしい福音を伝え続けます。彼らはイエスの愛によって悪魔から守られたのです。今私達の足元にも、この愛の主がおられるのです。

礼拝(8/12)説教片々    

   

   「分からせてくださる神さまと私」    

       マルコ福音書 8章22~25節

            竹内 拓 神学生

 このベトサイダの盲人に対するいやしについては、イエス様は一度ではなく二度の業によって完成させられています。なぜ二度なのでしょうか。

この奇蹟の前後の記事をみると、二度にわたる業は、イエス様の弟子たちや私たちに向けた神様の発信である事が分かります。すなわち、イエス様がなさった業の意味がはっきりと分からない場合にも、イエス様は私たちを決して見捨てず、更にもう一度両手を私たちの目に当てて、はっきりと見えるようにしてくださる ということを示しているものと解されます。

しかし、それが今直ぐ実現されない場合、時として不安になります。その時は希望を持つことが大切です。神様に対する希望は決して失望に終わることがないのです。

とはいえ、人間は弱い者です。まだ見ないものに希望を持ち続けていくことに困難を覚えることがあります。その時には、先ず、神様が私たちにしてくださった「目に見えるもの(恵み)」に目を向けて、数え上げていくことです。

聖歌604番は「数えてみよ主の恵み」と、主が与えて下さった恵みを想い出し、数え上げることの大切さを訴えています。これまでの「恵み」を、一つ一つ想い起こし、その事柄をじっと見つめ直すとき、確信が生まれてくるのです。そして未来に対する不安は消えて行きます。

こうして揺るぎのない希望を持って歩み続けて行くことのできる者とさせていただきたいと願います。

 

 平和聖日合同礼拝礼拝(8/5)説教片々    

 

  「神は子どもの泣き声を聞かれた」    

          創世記21章⒕~18節 

 父と母がけんかしたら、当人だけでなく、子供も傷つくように、国と国が戦争する時も多くの子供達や弱い人々が傷つきます。でもそんな子供達の声を神は聞いておられるのです。

 「トランクの中の日本」という写真集があります。これはアメリカ人のジョー・オダネルが73年前、日本に上陸し、軍の命令で日本各地を7ヶ月かけて撮ったものです。しかし彼は、これを二度と見たくないと、トランクにしまい、40年以上開けませんでした。後に彼は、かつて行った長崎や広島で大量の放射能を浴びたことにより、体を痛め仕事も辞めます。そんな彼がある日、「原爆の炎に焼かれるキリスト像」を見て心打たれ、写真の入ったトランクを44年ぶりに開けたのです。この瞬間、大人達がおこした戦争の中で泣き叫ぶ日本の子供達の声が神に届きました。 

 彼の写真の中で世界的に有名なのは、「背中に死んだ赤ん坊を背負って気をつけの姿勢で立つ少年」の写真です。たった10歳位の少年が一人で幼い弟を焼いて見送る悲しい姿に、ジョーは、激しい胸の痛みを覚えます。更に長崎の爆心地である浦上天主堂の廃墟に立った時、彼はここはゴルゴタの丘だと感じます。その丘から長崎全部を見渡した彼は息を飲みます。見渡す限り生きたものが何一つない。まるで宇宙に一人生き残ったような静けさに打ちのめされます。彼は祈ります。「神様、私達は何てひどいことをしてしまったのでしょう」。この彼の祈りが神に届き、彼の写真展は今も世界に大きな反響を与え、平和の大切さを訴え続けています。

 

 

 

礼拝(7/29)説教片々    

     「一粒の麦の死」    

        ヨハネ福音書 12章⒓~26節

 

 イエスがろばの子に乗ってエルサレムに入城すると、群衆はこぞってイエスを王として迎えます。イエスは人生の絶頂期を迎えます。更にギリシャ人までも来てイエスに平伏します。しかしこれを見た瞬間、イエスは自分の死を直感するのです。イエスは言われます。「一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが死ねば多くの実を結ぶ」。

 イエスは伝道を開始する前に神から一つの問いかけを受けます。「あなたは自分の人生の照準をどこに合わせているのか」。これに対してイエスは、「私は主にのみ仕えます」と答えました。そしてイエスが絶頂期に立った時、「これは神が目ざす所ではない。神のみ心は私の最期にある」と気付かれたのです。

 「主にのみ仕える」というのは、「自分の命を神に献げ、自分のためだけに生きない」ということです。そのように生きる者を神は決して見捨てません。「自分の命を愛する者はそれを失うが、自分の命を憎む者は永遠の命を得る」のです。「自分の命を憎む」という言い方は強烈な言葉です。でもそれは、「自分の命を神に献げ、自分のためだけに生きない」という強い決意の言葉なのです。イエスは、「この私の生き方に従え」と弟子達に言われます。もし世界中の人々が「自分の命を憎む」生き方をしたならば、武力によらない真の平和が与えられるのです。イエスはまさにそのように生きた私達の王なのです。

 

 

礼拝(7/22)説教片々    

   

  「ナルドの香油」    

       ヨハネ福音書 12章1~11節 

 イエスの最後の時が近づいています。イエスがラザロの家に居た時、彼の姉妹マリアが高価なナルドの香油をイエスの足に塗り自分の髪でぬぐいました。彼女はイエスの足を香油で洗ったのです。これを見た弟子達は、「売って貧しい人にあげればもっと役に立つ」と言って非難しました。マリアの行為は無駄なようですが、これはラザロをよみ返らせて下さったイエスへの溢れるばかりの感謝のしるしでした。そんな彼女の心をイエスはしっかりと受け止めて下さいました。

 そして13章では、今度はイエスが弟子達の足を洗うのです。まるでマリアのしたことに習っているようです。その時も弟子達はとても驚きます。しかしもっと驚くべきことは、マリアが高価なナルドの香油でイエスの足を洗ったように、イエスもご自分の一番大切なものをもって弟子達の足を洗われたことです。イエスの洗足とは、弟子達の罪を清める十字架の死を象徴的に表したものです。ですからこの時イエスはご自分の命をもって弟子達の足を洗われたのです。この世にこれ以上高価な恵みはありません。

 そしてもう一人、全身全霊をもってイエスに仕えたのがラザロです。彼はイエスによってよみ返らせて戴いたことに感謝して過ごすことによって、ラザロを見た多くの人々は皆イエスを信じる者とされました。 キリスト教がすばらしいのは、イエスと弟子の関係は、上下関係でなく、互いに全身全霊の愛をもって仕え合う関係だということです。私達が精一杯の愛をもってイエスに仕える時、イエスもそれを遙かに越える恵みをもって答えて下さいます。

 

礼拝(7/15)説教片々    

   

  「イエスを殺す計画」    

       ヨハネ福音書11章45~53節

 イエスのラザロのよみ返りの奇跡を知ったユダヤの宗教指導者達は、イエスを信じるどころか最高法院を召集して対策会議を開きます。彼らはイエスのすごい力を見て、「自分達は何もしていない」とあせったのです。神がわからなくなる第一歩は、「あせり」です。「あせり」は「恐怖」を生み出します。彼らはこの先、国中がイエスを信じ、イエスを王にし、自分達の地位は奪われ、更にローマ軍に攻められ神殿も国民も滅ばされるかもしれないと想像し縮み上がってしまいます。

 その時大祭司カイアファが、「ローマ軍から国を守るために、イエスを殺そう。その方が好都合だ」と言います。この判断基準は、信仰によるものでなく、自分達に好都合かどうかだけです。信仰者が、神の前における正しさでなく、この世の利益や安全を中心に考える時、自分では「神を信じている」と言いながら、「神が全くわからなくなっている」のです。そして彼らはイエス殺害を実行します。

 しかしこのユダヤ人の悪企みが進行する中、神のご計画も着々と進行していたのです。神はカイアファの言った「イエスの十字架の死」をもって、このユダヤ人の深い罪を赦し、更に全世界の異邦人の罪も赦し、世界を一つとする計画を立てられたのです。私達の神のなさることは何と大きいのでしょうか。この神が今私達と共にいて下さることを信じるならば、私達の「あせり」は消え、「恐怖」は去り、平安の内を主を賛美しつつ歩むことができるのです。

 

「部落解放祈りの日」礼拝(7/8)説教片々    

   

  「すべて虐げられている人のために」    

         Ⅱコリント5章17~18節

 

 「部落解放祈りの日」は、日本の部落差別や、すべての差別がなくなるために祈る日です。「神は和解のために奉仕する任務を私達にお授けになった」とパウロが言うように、神はこの世界で心通わなくなった人々を和解させようとしておられるのです。「和解」は、私達信仰者にとって何より大切なことです。私達はイエスの十字架によって神に罪赦され、神と「和解」させていただきました。更に神は教会を、様々な違いのある人々との「和解の場」として下さったのです。

 神は、「裂け目に注意を払え」と言われます。イエスは、人間社会の裂け目をそのままにするのではなく、遊女や罪人など社会から排除された人々と時を過ごし食事を共にされました。イエスは関係を結んでゆくことに時間を費やされました。そして対話し出会うことによって一つになれることを示されました。それは力ずくの一致ではなく、心の変化を通して起こります。

 先日私達の教会に性的少数者のグループから手紙が届きました。そこには「自分達は神を信じて教会に行きたい。私達を受け入れて欲しい」という叫びが詰まっていました。「主はすべて虐げられている人のために恵みのみ業と裁きを行われる」(詩編103:6)とあります。神はこのような人々を決してお忘れにならないのです。もし私達がこの世で小さくされている人々と友人になるならば、私達は神のために働くものとされるのです。いやむしろ私達の方が豊かな恵みをいただくことができるのです。

礼拝(7/1)説教片々 

 「ラザロのよみがえり」    

        ヨハネ福音書 ⒒章28~44節

 ラザロが墓に葬られて4日目にイエスは到着します。そしてイエスはラザロの死を悲しむ姉妹やユダヤ人を見ると、突然激しく怒り出し、次に泣き出します。一体イエスは何を怒りまた泣かれたのでしょうか。

 人は本来死ぬべきではない。これが天地創造以来の神のお考えです。しかし人は罪を犯したがゆえに死ぬべき者となりました。でも神は死ななければならない人間の悲しみ苦しみを放っておかれません。神の子イエスは、ただ泣くしかない者と共に泣いて下さいます。そして人間だれ一人太刀打ちできないのをいいことに猛威をふるう死に対して本気で怒っているのです。そしてその死に挑んでいかれます。イエスはラザロの墓の石を取りのけさせてから神に祈ります。それは、「父よ、私の願いを聞き入れて下さって感謝します」という祈りでした。神は祈る前からイエスの願いをご存知でそれをかなえて下さる方であるとイエスは信じています。神は常に先に先におられる方で、私達が願ったことを後から後からかなえて下さるような遅い方ではありません。この時イエスが墓に向かって、「ラザロ、出てきなさい」と叫ぶと、死んでいた人が墓から飛び出して来たのです。これこそラザロ、マリア、マルタ、すべての人間が心の奥底から望んでいたことです。「イエスを信じる者は、死んでも生きる」。人間が死に勝つ者とされたのです。これを見た人は皆イエスを信じました。彼らはこの世にあって恐れるものは一つもなくなったのです。

 

礼拝(6/24)説教片々    

   

  「私は復活であり、命である」    

        ヨハネ福音書⒒章17~27節

 

 ラザロの病気の知らせにすぐ出発しなかったがゆえに、イエスがラザロの元に到着したのは、葬られて4日目でした。イエスは遅すぎたのです。実はこの聖書は、当時迫害に苦しむヨハネの教会のために書かれたものです。彼らは、「なぜ神はすぐ助けに来て下さらないのか。遅すぎる」と考えました。遅すぎたイエスに対して、無念の言葉をぶつけるマルタの姿こそ当時の教会の姿そのものです。するとイエスは一言、「あなたの兄弟は復活する」と言われます。これこそがヨハネ福音書の主題です。キリスト者にとって一番大切なのは復活信仰だとイエスは言われます。

 ところがマルタは「復活は終わりの日に来ることは承知しています」と答えます。これが当時の教会の復活信仰です。でもいつ来るかわからない遠い未来の復活信仰では、現実の苦しみや死の恐れに打ち勝つことなどできません。そんなマルタにイエスは言います。「私は復活であり、命である」。復活とは遠い未来のことではありません。「私が復活である」とマルタの目の前に「復活」が立っておられるのです。このイエスを信じるということは、同時に生きている内に復活の命をいただくのです。生きている内に復活の命をいただく者は、死んでも生きます。結局決して死ぬことはないのです。これ程現実的で具体的な救いはありません。ヨハネの教会はこのような復活信仰を与えられたがゆえに、この後、この世の迫害を耐えて勝利したのです。

 

特別伝道礼拝(6/17)説教片々    

   

 「新しいことが、あなたのもとに走り込んでくる」    

       ヨハネ福音書16章20~22、33節

                                               平野克己牧師

 

 礼拝は「何かが起ころうとしている」という感覚を取り戻す場所です。日曜日、それは神が「光あれ」と宣言された日。日曜日、それは主イエス・キリストが復活された日。私たちは日曜日ごとに新しいことが起こるのを待ち受けるのです。

 「あなたがたには世で苦難がある」。主イエスは十字架の死の前夜、最後の晩餐の食卓を囲む弟子たちにまなざしを注ぎました。そのまなざしの中に私たちもいます。「あなたは苦しんでいるね。そして、私に従う限り、その苦しみはずっと続く」と主は言われるのです。主の 弟子として愛に生きる限り、望みに生きる限り、信仰に生きる限り、私たちの忍耐の日々は続きます。こんなに悲しみに満ちた世界なのですから。

 それでも主は言葉を続けます。「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている!」。不思議な言葉です。主はこれから部屋を出て、十字架へ向かうはずです。弟子たちは主を捨てる悲しみを味わうはずです。それなのに、将来が過去のこととなっています。「わたしは既に勝っている」と宣言なさるのです。

 

子どもの日・花の日合同礼拝(6/10)説教片々    

   

  「子どもを招くイエスさま」    

        ルカ福音書 18章15~17節

 

 イエスが人々に話しをしている所に、子どもに祝福を受けさせたいと願う親達が子どもを連れてやってきます。すると弟子達は彼らを叱ります。それを見たイエスは、「子ども達を私の所へ来させなさい。神の国はこの子ども達のような人のものだ」と言われました。今イエスの回りに多くの大人が集まっているのは、「どうしたら神の国に入れるのか」を知りたいからです。ところがその大人が邪魔だと思った子ども達こそすでに神の国に入る方法を知っているとイエスは言われます。何と驚くべきことでしょうか。人は死んだら自然と天国に行けるわけではありません。イエスは「子どものようにならなければ」といわれます。では「子どものような人」とはどのような人でしょう。

 この前の場面でイエスは「ファリサイ人と徴税人のたとえ」を話されました。二人は神殿で祈ります。ファリサイ人は、「自分は正しい人間で、徴税人のような者でないことを感謝します」と祈り、徴税人はただ一言、「神さま、罪人の私を憐れんで下さい」と祈りました。ファリサイ人は神の前で自分を誇り、他人を見下し、今の自分に満足して神に何も期待しません。一方徴税人は、自分で自分をどうすることもできないと認め、ひたすら神の赦しを求めています。神が喜ばれた祈りは、この徴税人の祈りであったとイエスは言います。「子どものような人」とは、自分を誇らず他人を見下さず、率直に神に頼る人です。そのような人になるために私達は日々祈るのです。「神さま、罪人の私を憐れんで下さい。アーメン」。  

 礼拝(6/3)説教片々  

  「イエスは良い羊飼い」    

        ヨハネ福音書 10章7~15節

  イエスとユダヤ人指導者達の対立はいよいよ激しくなります。そのユダヤ人との結着の答が、「イエスは良い羊飼い」というたとえなのです。イエスはユダヤ人を羊に例えます。羊はとても弱いので世話をし、狼から守る羊飼いや囲いが必要です。当時この役割を担っていたのがユダヤ人宗教指導者達でした。しかしイエスから見た彼らの仕事ぶりは全くなっていないのです。彼らは律法主義という狭い囲いにユダヤ人を押し込んで、律法を守れない人々をどんどん切り捨てました。まさに国中が放り出された羊であふれているような状態です。イエスはこれを見て、狼に食べられるのを知りながら羊を囲いから追い出す羊飼いなど、「偽羊飼い、盗人、強盗に等しい」ときびしく批判します。そして「私こそ良い羊飼い、羊の門だ」と宣言されたのです。イエスの導く囲いの中では、羊が「豊かに命を受ける」のです。「神は独り子をお与えになった程に世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。これが「命を豊かに得る」ということです。イエスの囲いは世界中を包む愛の囲いです。そこでは見捨てられる羊は一匹もいません。

 しかしここでイエスは「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われます。これはイエスの羊への深い愛の姿と同時に、イエスの敗北宣言です。たとえ神の子であってもユダヤ人の強い価値観は変えられません。相手を変えるためには、自分が変わるしかありません。「自分が変わる」とは、「自分を捨てる」ことです。そのためにイエスは「自分の命(・)を捨てた」のです。

 

 

礼拝(5/27)説教片々    

   

  「神のみ業が現れるために」    

       ヨハネ福音書 9章1~12節

 

 今日は親からも周りの人々からも見捨てられた生まれつきの盲人の話です。そんな彼に一番先に目を止めたのはイエス・キリストです。イエスの一番の関心事は苦しむ人、貧しい人です。この時弟子達はこの盲人についてイエスに問います。「この人が生まれつき目が見えないのは、本人の罪ですか、両親の罪ですか」。これを因果応報といいます。これが当時のユダヤ教の公式見解でした。即ち、今起こっている悪いことは、過去に犯した罪への神の罰だということです。確かにこのことで過去に犯した罪に気付き悔い改める人もいるかもしれません。しかしこの因果応報説で何もかも片付くのではありません。当時の多くの親が我が子の障害の原因が親の罪にあると言われたくないばかりに、子供を捨てるという悲劇がおこっていたのです。

 この時イエスは答えます。「この人が生まれつき目が見えないのは本人の罪でも両親の罪でもない。神のみ業がこの人の上に現れるためである」。イエスは因果応報をきっぱり否定されました。今や生まれつきの盲人だけでなく、私達の人生に起こって来るつらい出来事も私達の過去の罪への罰ではなく、光輝く未来への入り口とされたのです。なぜならイエスが私達の過去の罪をすべて引き受けて十字架で罰を受けて下さったからです。このイエスの十字架の救いを信じて生きる時、私達の人生はもはや過去に縛られることなく、この盲人のように心の目を開かれ、神が招いて下さる新しい人生を見つめて生きる者とされるのです。

 

ペンテコステ合同礼拝

(5/20)説教片々    

   

  「霊が語らせるままに」    

       使徒言行録2章5~13節

 

 イエス復活後、最初のペンテコステの祭りの日、聖霊を受けた弟子達に不思議なことがおこりました。その一つは言葉です。昔々人々が「バベルの塔」を建てた時、人は皆同じ言葉を話していました。しかし人が神に近づこうとしてこの塔を建てているのを知った神は、その思いを挫こうと言葉をバラバラにしました。しかしイエス復活後、神は「バベルの塔」の時とは反対のことをされたのです。

 ペンテコステの祭りの日、イエスの弟子達が一つとなって祈っていると突然激しい風と共に彼らは聖霊に満たされます。すると彼らは外に飛び出してそれぞれが、「イエスは救い主です」と語り出したのです。問題はその言葉です。何と彼らの言葉は、その時世界中からその祭りのためにやってきた全員にわかったのです。実は彼らは、いろんな国の言葉を話していたのではなく、「異言」を語っていました。ですから聞いていた人の中には、「新しい酒に酔っている」と言う人もいたように、普通「異言」を聞いても他の人には何を話しているのかわかりません。でもこの時だけは、弟子の「異言」を聞いた人々にその言葉の意味がわかったのです。なぜなら聞く人々にも聖霊が下ったからです。このペンテコステの日だけ神は、人が一つの言葉で語り、皆が理解できるようにして下さいました。でも皆が話し理解したことは一つです。それは、「イエスは救い主です」ということです。今私達がこのことを喜んで告白できるならば、その人は聖霊に満たされ、皆一つとされているのです。

 

 

 

礼拝(5/13)説教片々

                                                                                     「神の宣教」    神保 望牧師

 

       ヨハネ福音書 17章1~13節

 

 主イエスは、次のように祈られました。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすようになるために、子に栄光を与えて下さい」。ここで主イエスが言われた「時」というのは、地上において弟子たちと共に過ごす最後の時であると同時に、十字架の死後復活され天に昇られてから終わりの日に再会するまでの「待ち望む」という意味での希望に満ちた日々の「開始の時」のことです。つまり神を知り信じたところから、私たちの信仰者としての「新しい生そのもの」が開始されるということです。神を知り信じた人々というのは、神から与えられた御言葉を信じ受け入れてイエスこそ神の神子であり救い主として来られたお方であるという、聖書に記された証言内容を自らの生の礎とします。そこで主イエスは、言われました。「今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」。この御言葉を最後に、死が待ち受ける十字架へと主イエスは向かわれました。しかし主イエス・キリストの十字架の死後には復活という喜びが用意されていたのであり、私たちはそうしたキリストの復活の命に生きることを信じつつ、終わりの日における再会の約束をこそ希望として生きるよう祝福されているのです。そしてこの希望を携えて、私たちも父なる神が御子を通じて進められた福音宣教の御業に参与するよう導かれているのです。

 

礼拝(5/6)説教片々    

   

  「私は世の光である」    

         ヨハネ福音書8章12~20節

 イエスは、「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われます。一体この暗闇とは何でしょうか。今イエスにとっての闇とは、イエスを殺そうとするユダヤ教指導者達です。イエスは彼らの日頃の姿を見て、自己顕示欲が非常に強いと批判しています。彼らは神に仕えているようで実は「自分中心」なのです。これが闇の正体です。この世の様々な暗闇、罪の出所は「自分中心」なのです。これは今に始まったことではなく、アダムとエバ以後の人間すべてに当てはまります。人間が神なしで「自分だけ」で生きてきたゆえに、この世はいつも暗いのです。ですから私達が暗闇でなく光に歩むためには、「自分一人で行かない」ことです。私一人で行かず周りの人々と手を携えて、何よりも救い主イエスと共に生きてゆくのです。その時神は私達に命の光を与えて下さいます。

 イエスご自身も自分一人で行かず、常に神と共に、神とひとつであることを願われました。そのイエスの神への服従のすさまじさは「人を裁かない」という言葉からわかります。イエスはメシアとして与えられている「人を裁く権利」をすべて神に捧げたのです。そこまでしてイエスは神と密接に結びついていたかったのです。ゆえに神はみ子を「世の光」とされました。即ちこのみ子を信じる者の罪を赦し、信じる者にみ子と同じ復活の命を約束して下さいました。世界はまだ暗闇が支配していますが、私達はその中でも命の光を見い出すことが出来ます。私達はいただいたその光を周りの人々の前に掲げて行くのです。

  

礼拝(4/29)説教片々    

   

  「私もあなたを罪に定めない」    

        ヨハネ福音書 8章1~11節

 今日は一人の姦通の罪で捕らえられた女をイエスが罰しなかったというお話しです。ではイエスは本当に人を裁いていないのかというとそうではありません。この時、この場には三組の罪人がいました。第一は姦通の罪を犯した女です。第二はこの女を捕らえてイエスに裁かせようとした学者達です。いかにも正しいことをしているようですが、彼らはイエスを陥れ訴える口実を得ようとしている偽善家です。そして第三はこれらの出来事を見ている傍観者です。彼らはさかんにこの女を責め立てます。罪人の中で一番質が悪いのは、自分の罪に気付かないばかりか、自分は正しい人間だと思っている人です。この時イエスは女を完全に無視します。彼女はすでに自分の犯した罪を自覚しているからいいのです。しかし問題は第二、第三の罪人です。この時イエスは彼らに向かって、「罪を犯したことのない者がまずこの女に石を投げよ」と言われます。すると年長者から始まって次々と立ち去ります。

この時イエスはここにいた全員に罪を自覚させます。これがイエスの裁きです。決してきつい言葉を使わなくても、ここにいた全員が悔い改めて帰って行きました。これが本当の礼拝です。そして最後に残った女をイエスは励まします。「私もあなたを罪に定めない。もう罪を犯してはならない」。イエスの前で罪悔い改めた者に、イエスは暖かい愛と共に、新しく生き直す目標を与えられます。私達は礼拝の度に主の前に悔い改め、主の励ましを受ける幸いを感謝しつつ、新しく出発するのです

 

 

 

 

 

礼拝(4/22)説教片々    

   

  「渇いている人はだれでも」    

         ヨハネ福音書7章37~39節

  イエスはエルサレムで行われている仮庵の祭りにやって来ます。その祭りの最終日、多くの人が祭司が祭壇に水をかけるのを見守る中叫びます。「渇いている人はだれでも私の所へ来て飲みなさい」。イエスの言われた渇いている人とは、魂の渇いている人です。当時ユダヤ人はローマ帝国に支配され、先行き不確かな生活を送り、また国の中はユダヤ教の律法主義によって切り捨てられた人であふれていました。このような不確かさと不安の中で人々の魂は渇いていたのです。

 これは現代も同じです。一体私達人間はどこから来てどこへ行くのでしょう。この世に偶然生まれて、死んだら終わりなのでしょうか。そう思うとせめてこの世で確かな「もの」が欲しいといろいろな「もの」を集め、それによって生きる喜びを得て渇きを癒そうとします。それはお金であったり、宝石であったり、また人々からの称賛であったり、社会的地位であったり色々です。でもそれらの「もの」は渇きを癒すどころか、手に入れるともっと欲しくなって渇きが増すだけです。

 イエスが飲ませて下さる魂の渇きを癒す「命の水」とは、「イエスとの出会い」そのものです。人がイエスの深い愛を受けた時、その渇いた魂に「命の水」が聖霊によって注がれ、生きる力が湧き上がってくるのです。その時私達は、もはや不確かな存在ではなく、イエスと共に神から来て、この地上の生活が終わったらイエスと共に神のもとに帰ってゆけるという確かな者とされるのです。

 

 

 

 礼拝(4/8)説教片々    

   

  「私が命のパンである」    

       ヨハネ福音書6章34~40節

 

 草原でイエスからお腹一杯パンを食べさせてもらった五千人の群衆はどこまでもイエスを追いかけます。そんな彼らにイエスは、「一度食べてもまたお腹のすく食物でなく、いつまでもなくならない永遠の命に至る食物がある」と言うと、人々は「それを下さい」と詰め寄ります。するとイエスは、「私が命のパンである」と答えたのです。今人々が求めているのは目に見える食物や宝です。しかし目に見えるものはいつかなくなり飽きて別の物が欲しくなります。本物の食物、宝は物や出来事ではなく、目には見えない大切なある「人格」との出会い(・・・)の中にあるのです。その出会いの最高のもの、それが神の子との出会いです。

 イエスはご自分に出会いたいと願う者すべてのそばに来て、「私を丸ごと食べなさい」と言われる程に、私達と出会って下さるのです。そして「私と出会い、私を丸ごと食べた時、あなたは無限の宝を手に入れることができる」と言われるのです。その宝というのは、永遠の命です。神が一番願っておられるのは、「神が造られたすべての人を、死んで終わりではなく神と共に永遠に生きる者としたい」ということです。そのために神は、「私の子イエスと繋がっていなさい。その人に復活の命を与えよう」と言われるのです。しかし多くの人がこれを信じません。だからイースターがあるのです。イースターの本当の意味は、神がすべての人に永遠の命を与えて下さるという約束の第一号としてみ子を復活させ、更に私達をそれに続く者とさせるという大いなる出来事です。

 

礼拝(4/15)説教片々    

   

  「永遠の命の言葉」    

       ヨハネ福音書 6章60~71節

 

 福音はすばらしいものです。でもそれは人間の常識ではありません。常識の内に留まろうとする人、自分の思いを第一にする人はイエスから離れてゆきます。最初たくさんいた弟子の内で最後に残ったのは12人だけでした。でもイエスは人が離れていっても動じません。なぜなら「父からお許しがなければ誰も私のもとに来ることができない」と知っていたからです。しかし神のお許しをいただいた12人の1人ユダがイエスを裏切ります。彼がイエスを裏切ったのは、イエスの語った「私の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなた達の内に命はない」という言葉を聞いたからです。この意味は、「私はもうすぐ死ぬ。だがこの私を食べ飲むごとくとことん信じるならば、私の死の向こうにあなた方の復活の命がある」ということです。しかしユダが期待したのは「強いイエス」です。敵を破り自分達にパンと富を与える王です。もっと言えば「強いイエスと共にある強い自分」です。弱いイエスや弱い自分など見たくもないのです。強い自分を求める心、それがイエスを裏切るのです。

 一方たった12人になって不安をかかえる弟子達にイエスは言われます。「あなた方も離れてゆきたいか」。イエスはどんな時も弟子の自由を尊重します。その時ペトロは答えます。「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」。この瞬間ペトロは聖霊によって弟子の中で初めてイエスの本質を言い当てました。この時彼はイエスに対して、「イエスの弱さ(・・・)と自分の弱さ(・・・)の中に留まります」と告白したのです。