2024 (4/7) 礼拝説教片々

 

       「共におられる復活の主」         

                     ヨハネによる福音書20章19~31節 

  

  

 弟子たちの所に戻って来られた主イエスは御自分が十字架につけられ、あらゆる苦しみと侮辱を受けられて死に、そして今、復活しているということを弟子たちに知らせました。この知らせは弟子たちに言葉では言い表しえない喜びをもたらしました。主イエスは御自分の傷跡を弟子たちにお見せになりました。弟子たちは十字架の傷跡のある復活の主イエスを見ました。後悔と深い悲しみで心打ち砕かれていた弟子たちに喜びに満ちた主の平和が訪れました。主イエスは生きておられるのです。弟子たちの恐れと絶望の中に希望と勇気の小さな命の種が蒔かれました。

 主イエスの贖いの死によって罪を赦された喜びが弟子たちの心に満ちてきます。主イエスに愛され罪赦された者が、主に愛され罪赦されて生きる喜びを知る者となります。そして、この喜びがその者を、人を愛し赦す人にしていきます。

 主は自分を愛していると信じる信仰が、弟子たちの心を主の平和と喜びで満たしていきます。心に満ちてくるこの喜びが、主の言葉を伝えていく者として弟子たちをこの世の中に遣わしていく聖霊の働きです。この世の悪意と憎しみの中に、主が共にいて下さる喜びに満ちた平和を伝えていく神の言葉の伝道者が誕生していきます。

 主イエスが死んで復活されている今、主イエスの贖いの死によっても赦されない罪はありません。 

 

 

 

      2024(3/31)礼拝説教片々

 

       「キリストの復活」       

                     ヨハネによる福音書20章1~18節

  

  

  たとえ私たちの罪が私たちの愛する主イエスを裏切り見捨て見殺しにしたとしても、私達とは違い、罪のない主イエスはそんな私たちを愛しています。自分の愛する相手が自分を殺したとしても、主イエスはその人を愛しています。自分の愛する相手に自分の命をお与えになります。罪のない自分の命を罪のある私たちにお与えになります。愛しているからです。自分の命を与えることを通して、主イエスは私たちの罪を贖い、私たちの命を罪の穢れから清めて下さいます。主イエスが愛して下さっているので私たちはもう罪の囚われ人ではありません。罪の支配から解放され新たにされ、主イエスに愛され赦され、主イエスの愛に生かされていく命の道が、私たちの目の前に現れてきます。そこに主イエスが立っておられます。私たち一人ひとりの名を呼んでおられます。 

  主イエスの愛は私たちの罪によって滅ばされません。主イエスの愛は永遠です。主イエスは神の永遠の愛を伝えるために神のもとから私たちのもとへ遣わされてきた神の子です。主イエスが言われた三日目、新しい週の最初の日が夜明けの訪れと共に始まりました。主イエスの墓は空でした。ここに希望の光が輝いています。これを見て、主イエスが言われた言葉「イエスは必ず死者の中から復活されることになっている」は真理であると私たちは信じています。  

 

 

 

      20243/24)礼拝説教片々

 

       「ゲッセマネの祈り」         増尾隆司 神学生

                     マルコによる福音書14章32~42節

  

  

 主が十字架に着かれる直前の夜の出来事です。主の晩餐を行われた一行はゲツセマネに来ました。イエス様は最後の夜をこの場所で祈って過ごされることを選ばれたのでした。

 イエス様は「わたしは死ぬばかりに悲しい」と言われます。意外なイエス様の姿です。私たちがとまどうお姿です。

 地面にひれ伏されたイエス様は、「この杯をわたしから取り除けてください」と祈られたのでした。ここには私たちと同じ人間となってくださったイエス様の姿があります。私たちと同じように悩み苦しみ、恐れる姿です。

 イエス様はまことの神であり、まことのひとであります。私たち人間と同じ歩みをしてくださる完全なひとであるからこそ、イエス様は十字架によって私たちの罪を贖ってくださることが出来たのです。

 神の裁きを受け十字架に着かれるかたは、人間の罪をすべて担うため、人間の代表であることが必要でした。人間の代表であるイエス様の十字架により人間の全き救いが実現したのです。

 イエス様が祈る傍で眠りこける弟子たちの姿は人間の弱さ、そして主への無理解を表しています。これは私たちに通じる姿です。

 イエス様は私たちに今も言われます。「誘惑に陥らないよう、目を覚まして祈っていなさい。」

 この受難週の一週間、主の十字架と復活にむけて、日々イエス様の歩みを心に思い、神に祈りつづける特別な恵みの日々としたいと思います。 

 

 

 

     2024(3/17) 礼拝説教片々

 

       「十字架の勝利」         

                     ヨハネによる福音書12章20~36節

  

  

 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と、主は言われました。

 一粒の麦には、その一粒の麦としての姿、形があります。しかし、その一粒の麦の中に宿る生命力そのものには、姿も形もありません。姿なく、形なく、目には見えないこの生命力が、全く自由に、地に蒔かれた一粒の麦を変化させ、新しく生かし、豊かな実りをもたらします。そのように、神が全世界の人々のために与えて下さる永遠の命は、主イエスの犠牲の死を通して、豊かに与えられます。主イエスの十字架の死の後から、全く自由に風のように吹いてくる聖霊の力によって与えられます。

 主イエスは一粒の麦の一生にご自分の地上での一生を重ねます。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」と、言われました。そして、主イエスは御自分の命の実りである弟子たちの信仰生活を導く永遠の命の光となります。「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」と、言われました。一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままです。しかし、死ねば多くの実を結びます。一粒の麦の中に秘められている生命力が、十字架の主が死んでも生きる神の永遠の命の力である、と信じるなら、その人は死の闇の彼方から永遠の命の光が自分の命を照らしているのを見る人となります。 

 

 

 

    2024 (3/10) 礼拝説教片々

 

       「香油を注がれた主」         

                     ヨハネによる福音書12章1~8節

  

  

 ラザロは死にました。主を愛し主を信じて生きたラザロの地上での生涯は終わりました。そして、そのラザロを主は愛しています。主の愛は死によって終わる愛ではありません。ラザロの死を共に死に、死に勝利されている御自分の永遠の命の力を与え、主が復活させたラザロは、主の愛によって死の闇の中から命の光の中へ導き出された命となりました。

 そのラザロが今、主イエスのために用意された食卓についています。この食卓は主イエスの地上での最後の一週間が始まったことを記念する食卓です。主イエスが背負っていかれる苦しみに満ちた闇が深まっていく十字架の死への道のりの中には、その主イエスが死に勝利されていく光り輝く復活の命への道のりが秘められています。主イエスは十字架の死と復活の救い主。そう信じる人たちが主イエスのためにこの食卓を用意しました。

 この食卓にはその主を、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして愛し、主に仕える人の姿がマリアを通して現れます。マリアは一年間の労働で得たお金を全てつぎ込んで非常に高価なナルドの香油を一瓶買い、それを主の足に注ぎ、その主の足を自分の髪の毛で拭いました。心から溢れ出るマリアの主への愛が現れています。マリアは主にどんなに高価なものを献げても、主の愛に対する自分の愛、感謝、献身を現すにはとても足りないということを知っていました。

 

 

 

     2024(3/3) 礼拝説教片々

 

       「受難の予告」         

                     ヨハネによる福音書6章60~71節

 

  

 主イエスは言われました。「命を与えるのは霊である。肉は何の役にもたたない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」

 主イエスが与えようとしておられる命のパンとは主イエスが十字架の上に犠牲として献げようとしておられる主イエス御自身の肉、つまり主イエス御自身のからだのことです。このパンを食べなければ、つまり主イエスを信じることを通して、主イエス御自身の十字架の上での犠牲の死を受け入れなければ、人の命の内に永遠の命は宿りません。主イエスを信じることを通して、その人は主と人格的に交わる世界へと招き入れられます。肉体的交わりよりもさらに深い霊的交わりのなかへ招き入れられます。その世界の中で主イエスと愛し合い信じ合う交わりの中で、主イエスの十字架の死が明らかにしている神の霊の祝福、神の恵みと真理がいつも新たにその人の生きる命の糧となります。霊的交わりに生きるその人の肉となり血となります。命となります。だから永遠の命に生きるということと、主イエスを愛し信じて生きるということは、主イエスの肉を食べ、主イエスの血を飲み主イエスの命に生かされて生きる命となるということを意味します。だから主イエスの言葉は肉においてではなく、霊において聞かれるべき言葉です。主イエスと人格的に交わる霊の世界の中で聞かれるべき主イエスの言葉です。

 

 

 

     2024(2/25) 礼拝説教片々

 

       「メシアへの信仰」         

                     ヨハネによる福音書9章35~41節

 

  

 救い主であるイエス・キリストが来ておられる今、人の罪とは何でしょうか。主イエスを受け入れないという自己保身に人の罪は残ります。神を神として崇めず、自分自身の霊的貧しさを認めず、神が御子を通して与えて下さっている恵みと真理を求めず、光の中に出て行くことを拒み、与えられている機会を無視しています。自己保身に走るその人は神の救いを拒んでいる罪深く貧しい自分の姿が見えません。何故拒むのか,と問う主の声も聞こえません。ここに罪が残ります。

 主イエスが目を注がれた生まれつき目の見えないこの人は私たちに何を語っているのでしょうか。土から生まれた人は生まれつき肉体を持っていますが、霊性は欠けています。神が命の息を吹き入れて下さらなければ、人は生きる者とはなりません。そして、これは自分の力ではどうにもなりません。この姿は生まれつき目の見えない人が座って物乞いをしていたという姿に通じます。自分には神が見えないということを知り、だからこそ神の救いを乞い求めて生きてきた人の姿が現れてきます。主イエスはこの求めに目を注がれました。主イエスはこの求めに応えられました。主イエスを通して神の救いの業がこの人の上に現れました。神の聖霊の息吹が、生まれつき目の見えないこの人を、神の恵みと真理に満ちた新しい人生を生きる者としました。

 

 

 

    2024 (2/18) 礼拝説教片々

 

       「荒れ野の誘惑」         

                     マタイによる福音書4章1~11節

 

  

 主イエスは私たち人間の弱さを思いやることのできないような方ではありません。全てのことにおいて私たちと同じように悪魔の誘惑に晒されました。人の子として私たちと同じ弱さの中でその弱さを知りました。そして、その弱さの中で完全に神と共におられ、神と一つにつながっておられました。弱さの中で神から離れることはありませんでした。

 罪なき神の子が罪ある人の子の立場に立たれました。ここに真の神の子にして真の人の子、私たちの救い主イエス・キリストが立っておられます。ここに私たちの救いが現れています。だから、私たちがどんなに神から遠く離れた所に行ってしまったとしても、そこに主イエスが来て下さっています。救いがあります。私たちは神のところには行けなくても、主イエスのところになら行くことができます。そして、主イエスを通して神のところに立ち帰ることができます。

 荒れ野の誘惑、聖なる都の神殿の屋根の上の誘惑、そして、非常に高い山の上の誘惑、神の子である主イエスが受けられた悪魔の誘惑を通して、あくまでも私たち人間の側に立たれた真の神の子イエス・キリストの姿が現れてきます。私たち罪人と共に地上を歩んで下さる十字架の救い主、神の子であり人の子であるイエス・キリストが現れてきます。言は肉となって、私達の間に宿られました。

 

 

 

    2024(2/11) 礼拝説教片々

 

       「神に名を呼ばれて」         増尾隆司 神学生

                     出エジプト記3章1~15節

 

  

 ある日、燃え尽きない柴という不思議な現象に導かれたモーセを主が名前で呼ばれます。主はご自分がモーセの祖先からの神であることを明かされます。そして、主はモーセにイスラエルの民のエジプトからの救出という使命をお与えになりました。主は天上で人々の苦しみを傍観されるかたではなく、地上に降りて来て救いの業をなさるかたなのです。これはのちに主がイエス・キリストをこの世に遣わされるのに通じます。

 モーセの驚きはいかばかりのものだったでしょう。エジプトから逃れて以来アイデンティティー喪失状態のモーセは主に問います。「わたしは何者でしょう。」その彼に、主は言われます。「わたしは必ずあなたとともにいる。」と。さらにモーセは主に問います。あなたの名は何ですか、と。主は答えられます。「わたしはある。わたしはあるという者だ。」主は生きて働かれる神だということです。

 主はモーセになさったように私たちの名を呼ばれるかたであり、私たちにその使命をお命じになるかたです。キリスト者はみなモーセと同じく、神の召命を受けているのです。神はひとりひとりに時機にかなって声をかけてくださり、思いもしないような使命を与えてくださいます。

 

 

 

   2024(2/4) 礼拝説教片々

 

       「いやすキリスト」 

                     ヨハネによる福音書5章1~18節

 

  

 病に苦しみ38年間もあてもなく床に臥せったまま、絶望し無気力の中に陥ってしまっているこの人の魂を呼び覚ますかのように主イエスは呼び掛けました。「良くなりたいか」と。主イエスは直接この人を助けて、池の中に入れてやるということはなさいませんでした。その代わりに「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われました。すると驚いたことに、この人は主イエスの言葉どおりに生き始めました。主イエスの言葉はこの世の力を圧倒する命の力をもってこの人に臨みました。この人に自分の力で起き上がり、自ら歩き出す新しい命の力を吹き込んだのは主イエスの言葉でした。

 「良くなりたいか」と言われる主の言葉の中からは、この人の38年の苦しみを主御自身が担がれ、この人の苦しみを共に耐え共に歩んでいかれる主の姿、十字架の道を歩んでいかれる主の姿が現れてき ます。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」との主の力強い権威あるこの言葉は死の絶望を打ち破る命の言葉です。この命の言葉の中からは、死の闇の中から立ち上がった復活の主が現れてきます。十字架の死と復活の主イエス・キリストの言葉は絶望という死に至る病を癒します。そして、絶望から希望へと導き出す命の言葉となります。ここには人間を罪の支配から救う神の力が十字架の死と復活の命の主イエス・キリストにおいて現れています。

 

 

 

   2024(1/28) 礼拝説教片々

 

       「教えるキリスト」 

                     ヨハネによる福音書8章21~36節

 

  

 「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」と主イエスは教えられました。主イエスの教えを聞いて信じたとしても、その主イエスの言葉にとどまらなければ、主イエスの本当の弟子ではないと教えられました。主イエスの言葉を聞いて信じた人と、主イエスの言葉を聞いて信じて、主イエスの言葉にとどまる人とは、何が違うのでしょうか。聞いて信じた人の信仰は自分の頭で理解したという信仰でしょう。ここで主イエスが教えて下さる言葉を聞いている人たちは主イエスが言われた言葉を承認しながら、しかし、その言葉がこの世での自分自身の人生を決定する真理であると信じて受け入れたのではありませんでした。

 主イエスが教えて下さる本当の弟子とは、主イエスの言葉にとどまり、そのことを生きることにおいても死ぬことにおいても、いつも喜びとし、主イエスの言葉と共にある喜びに生き、また死ぬ人です。主イエスの言葉はその人自身の生活と一つとなり、切り離すことはできません。主イエスの言葉がいつもその人を正しい道へ導く力となっています。

 主イエスの言葉は主イエス御自身と一つです。主イエスは言葉そのものであられる方です。だから主イエスの言葉にとどまるということは、いつもその言葉を話される方の声を聞いているということです。主イエスの内に留まるということです。

 

 

 

  2024(1/21) 礼拝説教片々

 

       「宣教の開始」 

                     ヨハネによる福音書2章1~11節

 

  

 水を汲んで運んだ召使いたちはこのぶどう酒がどこからどのようにしてここに来たかということを知っています。しかし、世話役は何も知りません。最後に出されたこの良いぶどう酒に、神の前に罪人の罪を贖い罪人を罪の支配の下から神の愛の支配の下へ救い出した主イエス・キリストの十字架の上で流された血が、召使いたちの目には見えています。

 神が主イエスを通してなさった救いの業の物語であるこの奇跡物語を通して現れてくる神と神の民との祝福に満ちた愛の喜びの世界は、宴会の世話役が何も知らなかったように、十字架につけられた主イエスを信じない人の目にはいつも隠されています。主イエスを「世の罪を取り除く神の子羊」と信じた弟子たちだけが、この奇跡物語の中に秘められている救い主である主イエスの栄光のその最初の輝き、闇の中に輝く最初の光を見る者となりました。暗いこの地に現れ始めた神の国の最初のきらめきを見る悔い改めた罪人となりました。

 3日目のこの日がやって来るまでのユダヤ教的な罪の清めの儀式は、3日目のこの日、主イエスの十字架の血によって完成しているということ、聖餐の恵みのぶどう酒において信じる者に罪からの全き清めが与えられ、神と神の民との祝福に満ちた愛に生きる喜びに満ち溢れる全き一致が成し遂げられているということが、この奇跡物語の中に隠されています。

 

 

 

  2024(1/14) 礼拝説教片々

 

       「最初の弟子たち」 

                     ヨハネによる福音書1章35~51節

 

  

 御自分の歩みを進めて行かれる主イエスは後ろを振り返られ、御自分の後についてくる弟子に問いました。「何を求めているのか」と。主イエスが言われた最初の言葉です。主イエスが誰であるかということはもうすでに知らされています。救い主であるこの私にあなたは何を求めているのか、と主イエスが問うています。この問いは主イエスの後について行く者が自ら自分の内面に目を向けていく問いとなります。主イエスからこのように問われている自分は何を求めて主イエスの後について行っているのか、と自分自身の内面を自ら問う者となります。自分自身の心の奥底に潜んでいる自分の欲望を見つめる者となります。

 「何を求めているのか」と問う主イエスを前にして弟子は自らを問い、答える者となります。しかし、今の自分に答えることはできません。その代わりに一つの質問を主イエスに投げかけます。「先生、どこに泊まっておられるのですか」言葉通りの表面的な意味においては今日の主イエスの泊まる宿を問うています。しかし、言葉の背後にある深い霊的な意味においては、主よ、あなたは天の父なる神の御計画の中で、一体どこにおられる方なのですか、と問うています。主イエスは「来なさい。そうすれば分かる」と言われ、弟子をご自分の居る所へ導いて行かれました。弟子はついて行き、主イエスのいる所に留まりました。

 

 

 

 2024(1/7) 礼拝説教片々

 

       「神の子羊」 

                     ヨハネによる福音書1章29~34節

 

  

 天の父なる神のもとから自分の方にやって来る主イエスを見て「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」と叫ぶヨハネの言葉からは、神御自らあらゆる罪人を救っていかれる大いなる業が、ついに今日、主イエスを通して始まった、と感極まり叫び出すヨハネが現れてきます。「荒れ野で叫ぶ声である」ヨハネが現れてきます。暗い荒れ野の中を救い主が歩んでいかれる道を真っすぐにするための叫ぶ声であるヨハネが現れてきます。

 この世の中はヨハネの叫ぶ声が響き渡る暗い荒れ野です。世界各地で今も戦争や紛争が続いています。瓦礫の山と化した町に生き残った人は傷つき疲れ果て悲痛な叫び声をあげています。自らの欲望を力で実現させようとする人間の愚かさが現実を悲惨なものにしています。また自然の力がもたらす災害の甚大さは人間の弱さ無力さを人間に思い知らせています。

 絶望し泣き叫ぶ声が大きく聞こえてくる暗いこの荒れ野の中にあって、しかし今、私たちはその中で叫ぶヨハネの声を聴いています。自然の力が強大であり、その中で生きる人間がいかに愚かで弱く小さな存在であるかということを思い知らされたまさにその時に、私たちは神の救いを告げ知らせるヨハネの叫ぶ声を聴いています。ヨハネの叫ぶ声に導かれて顔を上げるなら、そこには瓦礫の中に立つ主の十字架が見えてきます。光が闇の中で輝いています。

 

 

 

2023(12/31) 礼拝説教片々 

 

       「神に祈り求める」   増尾隆司神学生

                     ルカによる福音書18章1~8節

 

  

 主イエスは気を落とさず絶えず祈らなければならないことを教えるため、弟子たちに喩えを話されました。ある町に神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいました。その町に一人のやもめがいました。やもめはこのひどい裁判官のところに来ては「相手を裁いて、私を守ってください」と言っていました。何度も何度も来ることで裁判官の考えが変わります。あのやもめはうるさくてかなわないから彼女のために裁判をしてやろう、と考えるのです。 

 ここで主イエスはおどろくべきこと、裁判官と神を重ね合わせるようなことを言われます。神はしつこく祈っているとあまりにうるさいと思われて、仕方なく義の裁きをしてくださるかたであるとでもいうのでしょうか? 

 そうではなく、ここで主イエスの言いたいことは「神は速やかに裁いてくださる」ということです。現実に圧倒され神への祈りがおしつぶされ、私たちの信仰が萎えてしまうような状況を、主イエスはこの不正な裁判官のもとにいるやもめの姿によって描いておられます。神は義の神であり速やかに裁いてくださいます。だからこそ、あきらめずに神に祈り求めなさいと、ここで主イエスは勧めておられるのです。 

 私たちがこの主イエスの約束を信じて、神の正しい裁き、神の正義の実現を求め祈るものとなることによってこそ、気を落とさず絶えず祈る者となることができるのではないでしょうか。 

 

 

 

 

2023 (12/24) 礼拝説教片

 

       「神に栄光 地に平和」 

                      ルカによる福音書2章8~20節

 

  

 主の御降誕という神御自身救いの業が始まった聖なる夜、天と地が喜びに満ち溢れ、その天と地の間には神の大いなる救いの業を褒めたたえる聖なる歌声が美しく響き合っています。この聖なる時の中に招き入れられた幸いな人は、野宿をしながら夜通し羊の群れの番をしていたこの地に生きる貧しい羊飼いたちでした。王の宮殿に集う華やかな人たちではありませんでした。眩いばかりに美しい聖なる光に包まれて、羊飼いたちの心には天と地の間に響き渡っている天使たちの聖なる歌声が染み透るように聞こえてきました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と。まさに夜空が開かれて、天がその聖なる姿を羊飼いたちの前に現した瞬間でした。

 救い主はお生まれになりました。このよき知らせは王の宮殿の大広間ではなく、野原で貧しく身分の低い羊飼いたちに一番に届けられました。彼らが探し当てた救い主は貧しい自分たちと同じように貧しい夫婦の間に生まれた他の赤ん坊と全く同じでした。そして、この赤ん坊はこの地で生きる貧しさの極みの中で安らかに寝ていました。ここに主の平和があります。ここは家畜小屋です。何の飾りもありません。しかし、ここには神の愛が光輝いています。羊飼いたちは自分たちの貧しさの中にまで降りてきて下さった自分たちの救い主と出会うことができました。

 

 

 

 

2023 (12/17) 礼拝説教片々

       「荒れ野で叫ぶ声」  

                      ヨハネによる福音書1章19~28節 

 

  

 「主の道をまっすぐにする」とは私たちがどんな心の準備をすることなのでしょうか。ヨハネの洗礼は本人の罪の告白に基づく悔い改めの洗礼でしかありません。人間の側でできる範囲のことを精一杯やっているにすぎません。しかし、ここにこそ、希望の光が闇の中に灯っています。ヨハネの業の後からは、ヨハネがその方の履物のひもを解くこともできないほどの大いなる方の驚くべき救いの業が成し遂げられていくからです。 

 水は表面を洗い清めることができます。しかし、心の中までは洗い清めることはできません。聖霊は目には見えない心の中までもまっすぐに入っていかれます。そして、聖霊の力で心の中を洗い清め、聖霊で心を満たしていかれます。 

 今、私たちに出来る精一杯のことは神の御前に自ら進み出て、悔い改めて、来て下さる主の道を真っすぐにし、その時の訪れを信じて待ち望むことです。ヨハネの水による洗礼を受けることを通して私たちは心の準備をします。そして、その後からやって来られる受肉し人の子となられた神の声である主イエスをお迎えした時から、主イエスの声に聞き従って生きる道が私たちの目の前に現れてきます。この道を歩むことを通して、主イエスの聖霊による洗礼を受けて新しい命に生きる私たちが誕生し成長していきます。十字架の死と復活の救い主の命の道が心の中にまっすぐに通っていきます。

 

 

 

 

2023 (12/10) 礼拝説教片々

        「御子を遣わす神」 

                      ヨハネによる福音書5章36~47節 

 

  

 今、神の独り子を目の前にして、その御子を拒否してしまう人の心とは一体どんな心なのでしょうか。主イエスは言われます。「父がお遣わしになった者をあなたたちは信じない」「あなたたちの内には神への愛がないことを私は知っている」と。

 この人たちの心は、自分たちこそは神を愛し、神を信じていると主張しますが、その一方で主イエスに敵意を燃やし主イエスを憎んでいます。口では主を愛し信じると言いながら、今、目の前に来ておられる神の御子を愛さず憎む人の心は、神を愛しているのでも信じているのでもなく、ただ自分を愛しているにすぎません。自分とは違う隣り人と共に神の愛に生かされていく幸いの中に進み出ていくことをしません。祝福に満ちた神の愛の世界の中へ、歩み出していくことをしません。

 もうすぐ神の御子がやって来られます。その時に向かっての私たちの心の準備は何でしょうか。自分の思い自分の考えへの執着、自己愛から解き放たれて、心の扉を開いて神の大いなる愛の世界に向けて心を高く上げ、神のもとから遣って来られる御子を真心で受け入れる心となるように祈りつつ待降節の中を歩んでいくことです。神が御子を通して差し出してくださっている神の真心を自分の真心で受け取る人は幸いです。命をかけて愛して下さる御子を命をかけて愛する人は幸いです。その人は神の愛に生きる人となります。

 

 

 

 

2023(12/3) 礼拝説教片々

       「主の来臨の希望」

                      ヨハネによる福音書7章25~31節 

 

  

 ここに登場している人たちは皆、主イエスを見ています。しかし、誰も本当の主イエスが見えていません。心の目は閉ざされたままです。しかもそんな自分の姿が見えていません。どうすれば己の姿が見えるようになるのでしょうか。そして、どうすれば、今、自分の目の前に来ておられるこの方が一体誰であるのか、何処から来られて何処へ行かれる方なのか、そして、一体何のために来られた方なのか、ということが見えてくるのでしょうか。

 自分が中心になって生きているこの閉じられた狭い心の扉を開いて、神のもとから遣って来られた神の御子を迎え入れることです。心を開いて真心を尽くして主イエスをお迎えすることです。その時、もう恐れることは何もありません。主イエスは神の愛だからです。神の愛が私たちの真心に宿る時、恐れは消えています。

 神の愛が永遠の命の力で私たちのこの小さな命を新たな命に誕生させる時が始まりました。待降節が始まりました。私たちが自分自身の思いから神の御心に向かって心を開き、心を高く上げる時が始まりました。主の御降誕の時に向かって、うわべだけではなく、真心をもって神の御言葉を聴き、神の御言葉に導かれて、新しい信仰の歩みを踏み出して行く待降節が始まりました。神が御言葉をもって御子の誕生の時へと私たちを導いていって下さる新しい一年の信仰の歩みが始まりました。 

 

 

 

2023(11/26) 礼拝説教片々

       「罪人の王」

                      ヨハネによる福音書18章28~40節 

 

  

 ピラトには神の言葉を語る主イエスの言葉が全くわかりませんでした。自分の目の前に立っておられる主イエスが一体誰なのか、ピラトには全く見えませんでした。ピラトもまた主イエスをピラトに引き渡したあのユダヤ人の人たちと同じでした。自分たちのところにまで近づいて来て下さっている神の救いの業が信じられず、この世の中に安住している自分を選び、主イエスを受け入れることを選びませんでした。主イエスを異邦人の手に引き渡したあの人たちと同様に、真理には程遠いこの世の混沌の力の支配の下にある罪深い人間ピラトがここにいます。そして、救い主イエス・キリストはこの混沌の闇の中を、罪人の頭である神の民の大祭司の罪と共に、異邦人であるローマ総督ピラトの罪をも御自身の身に背負われて、十字架へと進んで行かれます。神の御心に従って神の驚くべき救いの御業、真理の力を混沌の力が支配するこの世の闇の只中に貫いて行かれます。 

 まさに主の過ぎ越しの祭りを祝う罪人のために主が供えられた食事である汚れのない犠牲の子羊、主イエスが進んで行かれます。罪人の手に渡され罪人の手によって殺されていくことを通して御自分を殺す罪人の罪を贖い、その罪人を罪の支配の下から救い出し、新しく神の永遠の命に生きる赦された罪人とするために、神の国から遣わされてきた罪人の王がこの世の罪人たちの間を進んで行かれます。 

 

 

 

2023(11/19) 礼拝説教片々

       「神の命のパン」

                      ヨハネによる福音書6章26~35節

 

  

 今日のこの召天者記念礼拝を献げることを通して、天にある者と地にある者とが共に神の永遠の命に繋がっているという命の恵みを覚えて、心から神に感謝します。

 こうして私たちが共に神の御前に集い召天者記念礼拝を献げているというこの事実の中から現れてくることがあります。それは私たちの命はこの地上での肉体の死によって消えて無くなってしまうのではないということです。十字架の死と復活の命の救い主イエス・キリストの救いを信じる信仰が神から恵みとして与えられ、その命の恵みに生かされてこの地上での自分の人生を生きていった人たちの魂はこの地上での生涯を終えた後、恵みの信仰に導かれて天へ上っていったということです。私たちの肉の目には見えませんが、天において命の源である神の永遠の命の中でその永遠の命の恵みに与って、神と共に生きているということです。

 主イエスは「わたしは命のパンである」と言われました。命のパンとは「永遠の命に至る食べ物」のことであると言われました。そして、「わたしの父がまことのパンをお与えになる」と言われました。もう死は永遠の別れではありません。私たちの本国は天にあります。私たちのこの地上での人生の目的、生きる意味は天にあります。神の御心にあります。この真理は天に召されていった私たちの信仰の先達が証ししています。

 

 

 

2023(11/12) 礼拝説教片々

       「神の民の選び」

                      ヨハネによる福音書8章51~59節

 

  

 「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」と主イエスは言われました。そして「わたしはわたしの父の言葉を守っている」と言われました。そして「わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父である」と言われました。主イエスが神から受ける栄光は十字架の誉れです。主イエスの父である神は、愛する子を十字架につけることによって、子に栄光をお与えになりました。この世の闇の中に神御自身の光を主イエスの十字架を通して現わされました。 

 主イエスはここで、ユダヤ人たちの神と主イエスの父である神とが異なる神であるとは言っておられません。天の父なる神が地上に遣わした子を十字架につけることによって神御自身の救いの業を完成させているというこのよき知らせ、この神の言葉を、今、受け取るかそれとも拒否するかということが、罪人が神の救いに与るが否かを決定していると主イエスは言われました。だから「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」と言われました。しかし、この人たちは肉に属する以上のことは何も見えていません。しかも自分たちは何も見えていないということが見えていません。人の子の死の闇の中に輝く神の子の復活の命の光がこの人たちの目には見えません。そしてこの後この人たちは見えないまま、生まれつきの盲人を癒す主イエスとの出会いの時へと導かれていきます。 

 

 

 

2023(11/5) 礼拝説教片々

       「永遠の命」

                      ヨハネによる福音書3章1~21節

 

  

 主イエスはニコデモに言われました。「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と。更に「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆その通りである」と。

 神の霊は人間の思いを遥かに凌いで全く自由に活動を続けておられます。神御自身の御心のままに吹いていかれる神の霊は神の命の息です。神は御自身の命の息を吹き入れられて人に命を与えられる方です。風のように吹いてくる神の霊の中から聞こえてくる命の声を聴いて命の声に生かされて、吹く風のように爽やかにこの地上を生き抜いていく人は霊によって新たに生まれた人であり神の国に生きる人です。

 吹いてくる風を実感しその風と共に生きる人となりたいと望むならば、自分がその風に吹かれることです。その風の中に我が身を置くことです。吹く風を自分の手の中に掴もうとしている限り、風は自分の手の中を吹き抜けていってしまうでしょう。自分の手の中に神の霊を掴もうとすることほど愚かで傲慢なことはありません。ニコデモは「どうしてそんなことがありえましょうか」と言いました。主イエスを目の前にしていながら、神の霊を見ることも神の声を聴くこともできませんでした。肉に属する以上のことは何もわかっていませんでした。そしてそのことを主イエスによって知らされました。 

 

 

 

2023(10/29) 礼拝説教片々

       「新しいこと」  増尾隆司神学生

                      イザヤ書48章1~6節 

  

 

 イスラエルの民が神の民として歩まず、異教の神々、偶像の神々を拝んだ背信を赦さず、主はユダ王国を異民族の手で滅ぼすことにしましたが、主はその民を放っておかれることはありませんでした。ペルシャ王キュロスがバビロニアを破ったことにより、民は捕囚から解放されるのです。ところが、主が解放が近いことを告げてくださったのに、民はそのみ言葉を聞こうとはしませんでした。民の頑なさは「首は鉄の筋」「額は青銅」と形容されています。 

 礼拝でみ言葉を聞く私たちですが、語られているみ言葉をちゃんと聞いているでしょうか。罪ある人間は、神の言葉であっても聞きたくないことは聞かない頑なさを持っています。そのような私たちにも神はイエス・キリストにつながる希望を指し示してくださっています。6節後半の主なる神の、「これから起こる新しいこと」の告知に、私たちは主イエスの出来事を見ることが出来るのです。 

 主イエスの十字架により神の裁きが行われ、私たちの罪をもう問わないことに神がしてくださったのです。頑固で鉄の首筋や青銅の額をもつ私たちは、聞きたいことだけを聞く頑なな者ですが、十字架の贖いの救いをいただき、その恵みによって新しく生かされるとき、み言葉を聞くことの恵みが分かっていくのではないでしょうか。それこそが、主イエスが私たちにもたらしてくださる「新しいこと」なのです。  

 

 

 

2023(10/22) 礼拝説教片々

       「死を経て復活へ」  

       ルカによる福音書19章11~27節 

  

 

 今、エルサレムを目の前にして、主イエスは御自分に注がれている大勢の人々の熱狂的な期待を御覧になりました。「神の国はすぐにでも現れるもの」と思っているこの大勢の人々の心の内を御覧になりました。しかし、主イエスがこれからエルサレムに入っていかれるのはこの期待に応えるためではありません。むしろ反対に人々の期待を全く裏切っていくかのようなこの世の現実を通り抜けていくためにエルサレムの中に入っていかれます。その現実とは主イエスに敵対する力が主イエスに勝利するかのような現実です。それは主イエスが十字架につけられ死んでいかれる現実です。今、別れを前にして、再会を信じて生きる者の歩むべき道を主イエスはこのたとえを語ることを通して示しておられます。 

 このたとえを語ることを通して、主イエスはこのたとえを聞く者に何を求めておられるのでしょうか。主イエスが去ってから再びお会いする時が訪れるまでの間、主イエスが与えて下さった一つの小さな命の恵みの種(1ムナ)を心の底から受け取り生きることを通して、主イエスの命によって新たに生かされる喜びと感謝に満ちた悔い改めの実を豊かに結んでいくことを求めておられます。その時が訪れたら、主イエスの恵みを受けた者の信仰の歩みを通してその恵みが生きる命となり豊かな実を結んだか、それとも結ばなかったかが明らかになります。

 

 

 

 

2023(10/15) 礼拝説教片々

       「復活の主の顕現」  

       ルカによる福音書17章20~37節 

  

 

 最初にファリサイ派の人々が主イエスに尋ねました。「神の国はいつ来るのか」と。そして最後に弟子たちが主イエスに尋ねました。「それはどこで起こるのですか」と。ファリサイ派の人々も弟子たちも、神の国は、いつ、どこで、起こるのか、ということを、前もって自分たちで知っておきたいと望んでいます。この時、どちらも同じ過ちを犯しています。神が主イエスを通して為さることを、人間が計算したり、予想したりして、自分の人生の計画の中にあらかじめ組み入れようとする態度は、神の御支配を前にしている己を知らない者の不遜な態度、あるいは無知で傲慢な態度となります。主イエスが教え導いて下さっていることは神の御支配の中で生きる人間が歩む道です。いつ、どこで、起こるのか、ということは神御自身の御心の内に隠されています。

 「神の国はあなたがたの間にある」と主イエスは言われました。主イエスと出会っている今、もうすでに神の国の訪れは始まっています。主イエスとの出会い、別れ、そして再会を通して、神の国の道は続いていきます。その主イエスが弟子たちに求めていることは、ただ一つ、主イエスを信じて生きるということです。主イエスに愛され、主イエスに生かされて生きている自分を愛し、主イエスから離れていかず、主イエスに導かれながら、自分の人生を生きていく、その人生の旅路が神の国の旅路です。

 

 

 

 

2023(10/8) 礼拝説教片々

       「神の愛」  

       ルカによる福音書17章1~10節 

  

 

 信仰とは、何でしょうか。信仰とは、主なる神が御自身の御心に従って全く自由に与え、増して下さる一方的な神の恵みの賜物です。だから、信仰が神からの恵みの賜物、神の力であるなら、あなたがたの信仰がどんなに小さくとも、たとえからし種一粒ほどの信仰であっても、その信仰を通して、あなたがたの不可能を可能にする神の力が働く、奇跡が起きる、ということを「もし、あなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」と主イエスは弟子たちに言われました。信仰がこのように神からの恵みの賜物であり、神の力であるなら、そこで働いているのは神です。そうであるならその神の僕は、これは自分の手柄である、と主張することができるでしょうか。もちろん、できません。僕として為すべきことを為したにすぎません。 

 

 私たちの信仰の歩みにおいて、つまずきは避けられません。しかし、その自分にからし種一粒ほどの信仰が授けられているなら、「わたしどもの信仰を増してください」と私たちは主に願い求め祈ることがのこのからし種一粒ほどの信仰の中には主イエスの命が息づいています。神の大いなる力が秘められています。

 

 

 

 

2023(10/1) 礼拝説教片々

       「金持ちと貧者」  

       ルカによる福音書16章19~31節

  

 

 何故金持ちの魂は天使の助けを受けられずに陰府に落ちていったのでしょうか。何故貧しかったラザロの魂は天使に助けられて天の宴会の席に着いているのでしょうか。主イエスはこの二人の内面について何も語っていません。ただ一つ明らかにされていることはこの二人はどちらもアブラハムの子であるということです。それではこの違いは何処から来るのでしょうか。それは、この話は主イエスをあざ笑った「金に執着するファリサイ派の人々」のために主イエスが話された話だということです。聞き手であるこのファリサイ派の人々は、陰府に落ちていったアブラハムの子であるこの金持ちの魂は自分たちのことを言っているのだということに気が付いたでしょうか。そして、この貧しいラザロの魂、天使に助けられて天の宴会の席に着いたアブラハムの子は、自分たちが罪人として見下していた同胞であり、主イエスの救いの恵みに与っていく悔い改めた罪人たちの魂のことを言っているのだということに気が付いたでしょうか。

 アブラハムの子であるこの金持ちの信仰に欠けていたものは何なのでしょうか。それは、自分が手に入れ蓄えた富に満足して見せびらかしているだけで、その自分の富を貧しい者や負債を抱えて苦しんでいる同胞と分かち合って生かすということを少しもしなかったということです。これこそが主イエスのあざ笑う人間の内面です。

 

 

 

2023(9/24) 礼拝説教片々

       「世の富」  

       ルカによる福音書16章1~13節

  

 

 この管理人は自分が今まで主人の財産を無駄遣いして生きてきたということを自覚しています。そのことを主人から問われた時、この管理人は主人に素直に答えることをせず主人の問いから逃げる道を考えました。「どうしようか…、そうだ、こうしよう」と自分の力で自分を救う道を考え出し、それを実行しました。

 これが主なる神の憐みを信じて求めることをせずに、自分の力を信じて生きるこの世の子らの賢さ、抜け目なさであると主イエスは弟子たちに教えられました。しかし、この世の子ら中に遣わされた光の子らは、この世の子らが自分のために自分の利益を求めて抜け目なく賢く振舞うように、いや、もっとそれ以上に、この世での自分の利益を求め手に入れることを超えて、神の国の到来を求めて、そのために知恵を働かせ賢く振舞わなければならないと主イエスは弟子たちに語り、諭しています。

 「どんな召使いも二人の主人に仕えることはできない」と主イエスは弟子たちに言われました。この世の富を愛し、この世の富の力を信じて、この世の富の力の召使いとなって生きるのか、それとも十字架の死と復活の命の救い主である私を愛し、私の命の力を信じて生きるのかと、主イエスは、御自分についてくる弟子の歩む道を示し、弟子の目を開かせて、弟子自身の主体性を導き出しておられます。 

 

 

2023(9/17) 礼拝説教片々

       「新しい人間」  

       ルカによる福音書15章11~32節

  

 

 兄は自分の弟を「わたしの弟」とは言わずに「あなたのあの息子」と突き放して言いました。その兄に父は「お前のあの弟」と言い、兄もこの祝いの宴に加わるように招きました。兄が怒る理由の当たり前と父が喜び祝う理由の当たり前とは、何とかけ離れていることでしょうか。 

 父は二人の息子を持っていいたというだけではなく、父は二人の息子を愛していました。父は自分の二人の息子どちらに対しても自分のほうから迎えに出て行きました。愛していたからです。悔い改めの道を歩み始めた弟をいち早く見つけ、まだ遠く離れていたにもかかわらず憐れに思い走り寄って首を抱き接吻しました。怒って家の中に入ろうとしない兄をなだめようと、父は自分から家を出て兄に近づいていきました。 

 神の愛は両方どちらもです。どちらか一方ではありません。弟を受け入れるということは兄を拒絶するということではありません。徴税人や罪人を愛するということはファリサイ派の人々や律法学者の人たちを愛さないということではありません。これが神の愛なのだと主イエスは、今、御自分の話を聞こうと集まってきている人たちに話されました。この神の愛を伝えるために主イエスはやって来られました。主イエスがやって来られている今、死んでいた者が生き返り、失われていた者が見い出され、神の愛の御手の中に取り戻され始めています。 

 

 

2023(9/10) 礼拝説教片々

       「十字架を背負う」  

       ルカによる福音書14章25~35節 

  

 

 エルサレムに向かう途上にいる主イエスが後ろを振り返ると、そこには御自分の後について来る大勢の群衆がいました。この群衆に向かって主は言われました。「もし、・・・しないならば、わたしの弟子ではありえない」と、3度繰り返して言われ、御自分の弟子となって生きる道の厳粛さを群衆の前に突き付けました。主イエスは御自分についてくる弟子と御自分についてくる群衆を区別しています。弟子と群衆、何が違うのでしょうか。群衆の中の一人から弟子の一人へと進んで行く道はどのような道なのでしょうか。 

 主が大勢の群衆に問うていることは何でしょうか。それは主の命の中に自分を捨てるということです。その生き方こそが主の弟子となって新しく生きる道であるということです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」と主は言われました。私たちは誰でも自分の思いを持っています。そんな私たちが主の弟子となり主の後についていく日々の歩みは、日々、自分の思いへの執着から解放されて主の思いに導かれ従っていく歩みとなります。 

 私たちの信仰が風味を失ってしまった塩とならないように、主の日の教会の礼拝に繋がり、主の言葉に繋がることが求められています。 

 

 

2023(9/3) 礼拝説教片々

       「主の御前に生きる」  

       ルカによる福音書14章7~14節

  

 

 主イエスを招いて催される食事の席は主イエスの食事を味わう席となります。だから自分たちの食事の席に主イエスを招いた人たちは神の国の食事を味わう人たちとなります。この食事を味わうために共に集う人たちは、招く人も招かれる人も共に主イエスの命の恵みに与る人たちです。ただ主イエスの恵みに与って新しい命に生かされていく、赦されて生きる罪人です。主イエスが与えて下さる命の恵みに匹敵するお返しをすることができるようなそんな正しい立派な人は、誰もいません。 

 主イエスの食事は価なくして与えられる恵みです。この恵みの命に生かされる罪人は幸いです。主イエスの復活の命に与って生きる人となるからです。聖霊の息吹に生かされて生きる新しい人となるからです。「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」と主イエスは言われました。主イエスが言われる「正しい者」とは十字架の主であるイエスを我が救い主と信じ、生きていく自分の命の源として招き入れる人です。恐れつつも、主イエスの愛を信じて、主イエスを目の前にして自分の全てを主に委ね、自ら低くなり、主イエスの命の恵みに与っていく人です。主イエスの命の恵みに与る「正しい者たち」は主イエスの復活の命の恵みに与って生きる新しい人たちです。どこから来たかということではなく、どこへ向かって行くかが問題の新しい人たちです。  

 

 

 

2023(8/27) 礼拝説教片々

       「神との絆」  久保哲哉牧師

       ヘブライ人への手紙12章1~13節

  

 

 本日の聖句には「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走りぬこうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(12:1)とあります。なんと力強い励ましの言葉でしょうか。人生には試練が付きものですが、信仰の「創始者」である主イエスが先頭に立って私たちを助け、導いておられることがわかる御言葉です。また、信仰の「完成者」として後方からも私たちを守り、導いてくださっていることも表現されているのでしょう。さらに、この「創始者」という言葉は「導き手」とも訳すことができるため、主イエスがわたしたちのすぐ近くに共におられ、私たちの萎えた手と弱くなった膝を癒し、まことの導き手として支え、導いてくださっているイメージをも持つことができます。神と人との絆が堅く結ばれていることがよくわかる聖句です。 

 この地上の歩みは山あり、谷あり、色々なことが起こります。時に、主なる神からの試練に打ち負けそうになることがあります。しかし、力が弱くても、心や体が萎えていても、十字架の主イエスを見つめながら進むならば大丈夫です。絡みつく罪に苛まれ、人生の重荷に心騒ぎ、気力を失いそうなときこそ、神の助けによってすべてが「益となる(12:10)」と信じ、主なる神との絆を信仰によって確認していきましょう。ここに人生を走り抜く秘訣があります。   

 

 

 

2023(8/20) 礼拝説教片々

       「信仰の実り」          

       ルカによる福音書13章10~17節 

  

 

 今、ここに主イエスが来ておられます。そしてその主イエスを通して、神の癒しを信じこの時が訪れるのを待ち望み続けて生きてきた一人の女性の切なる祈りを、神がお引き上げになっています。今、ここに神の国が現れています。主イエスは神の子であるということが、主イエスの癒しの業を通して明らかになっています。

 主イエスとこの一人の女性との関係を通して、今、私たちの目の前で展開しているこの光景は私たちにどんな世界を伝えようとしているのでしょうか。それは私たち人間が見て知っているこの世を遥かに超えている神の世界です。悪霊の力に勝る聖霊の力が満ちている神の世界です。神の世界は、主を信じ祈り求めて生き続ける人の信仰と繋がり、その人の信仰を通ってこの世に現れてくる世界です。だから信仰はこの世の闇を照らす光をその人にもたらします。神の独り子イエス・キリストがその人に訪れます。 

 主イエスが私たちの所に来ておられます。神の救いが私たちに訪れています。時は満ち、神の国は私たちのすぐ目の前にまで来ています。私たちは神の世界を聖書の御言葉を聞き,見て、知っています。その私たちが、今、為すべきことは何でしょうか。それは主イエスの招く声に聞き従い、悔い改めて、福音を信じて新たに生きる幸いな人になっていく道を歩むということです。    

 

 

 

2023(8/13) 礼拝説教片々

       「主を待ち望みつつ」          

       ルカによる福音書12章35~48節

  

 

 主イエスは御自分の弟子たちに主人の帰りを待つ僕の話をされました。僕たちにとって主人が帰って来るということは確かです。しかし、主人がいつ帰って来るのかということはわかりません。それでは、わからないという状況の中で僕たちはどのように主人の帰りを待ち望めばよいのでしょうか。 

 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」と主イエスは弟子たちの信仰の歩みを導かれます。気を緩めることなく、常に準備と見張りを怠ってはならないと言われる主イエスの言葉からは聖なるものと向き合っている厳粛さと緊張感が伝わってきます。 

 主人はいつ帰って来るのかという問題に対して、自分たちの知恵を用いて勝手に見当をつけるような信仰態度は主イエスの弟子として相応しくありません。主人がいつ帰って来るのか、それはわかりませんが、しかし、主人は必ず帰って来るということはわかっています。だからそのための用意をすることはできます。その用意とは、自分に言って下さった主イエスの言葉に忠実であり続けるということです。主イエスの言葉に聴き従って生きるということです。それができているなら、その時がいつやって来るかわからないとしても、心配したり、思い煩ったり、驚いたりすることは、何もなくなります。主人に忠実で賢い僕は自分の行いの土台を自分の賢さにではなく主を信じる信仰におきます。     

 

 

 

2023(8/6) 礼拝説教片々

       「隣人」          

       ルカによる福音書10章25~42節

  

 

 今、本当に生きるために何をすべきなのでしょうか。行って行うべきなのでしょうか、それとも聞いて考えるべきなのでしょうか。今、どのように生きたらよいのでしょうか。その答えは主イエスと対話することを通して与えられます。ここには主イエスと対話することを通して聖霊の働きに触れている二人の人がいます。 

 ところで、今、この二人の隣人になっている人は誰でしょうか。自分が中心になって生きているこの二人のところにやって来て、神が中心になって生きておられる世界、神の国に生きる者へと招いているこの二人の隣人は誰でしょうか。その人はいなくなっていた命を見い出し、死んでいた命を生き返らせるために、この二人のもとにやってきた主イエスです。今、この二人に神の救いが訪れています。追いはぎに襲われた人の所にやってきたあのサマリア人のように、この二人のところに主イエスがやって来ています。 

 神の救いが訪れた時、永遠の命を受け継ぐために為すべき唯一つの必要なことは何でしょうか。それは主の声に聞き従って生きるということです。この律法の専門家は「行って行いなさい」との主の声を聞きました。マルタは「命の糧である主の言葉を聞き考えなさい」との命の声を聞きました。主イエスとの対話を通して私たちは聖霊の働きに触れることができます。そして、永遠の命を受け継いで生きることができる道が示されます。   

 

 

 

2023(7/30) 礼拝説教片々

       「罪の帳消し」 増尾隆司神学生        

       ルカによる福音書7章36~50節 

  

 

 イエス様はファリサイ派のシモンに食事に招かれます。その席に罪深いとされる女性が泣きながら入って来て、涙でイエス様の足を濡らし、自分の髪でそれを拭います。また足に香油を塗って接吻します。

 シモンはイエス様がその女性がするがままにさせられたことにつぶやきます。「イエスはこの女が罪深いことが分からないのか?」

 イエス様はシモンに借金を帳消しにしてもらった人のたとえを話され、シモンの愛の無さとこの女性の一連の行動に現れた愛の深さとを対比されます。そして宣言されます。 

 「この女の罪が赦されていることは、私に示した愛の大きさで明らかだ。」 

 この女性の罪はイエス様を多く愛したから赦されたのではなく、イエス様への信仰により既に赦されていたから、これらの深い愛の行為を行ったのです。 

 イエス様はこの女性に言われます。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」 

 私たちもイエス様の十字架によって罪を帳消しにしていただき、安心して行きなさいと言っていただいています。感謝してこの世の旅路を歩みましょう。

 

 

 

2023(7/23) 礼拝説教片々

       「女性の働き」        

       ルカによる福音書8章1~3節

  

 

 主イエスの弟子は男性ばかりではありません。男性の弟子と同じように故郷をあとにして、全てを捨てて主イエスのあとについていった女性の弟子がいました。「彼女たちは自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」と記されています。彼女たちは単に経済的な支援と奉仕を行って地上での主の旅路を支えていただけではありません。主のあとについていきながら主の旅路を支えることを通して重要な役割を担っていきました。彼女たちは主の十字架の死の目撃者となりました。その後主の復活の最初の証人となりました。更に復活の主が天に上げられていった証人となりました。彼女たちはこの世に宿り、時が満ち誕生の時を迎えたキリストの教会を無事に生み出し育む力となりました。彼女たちの貢献がこの世でのキリストの教会の働きを現実のものとしていきました。神の国の福音を単なる言葉だけのもので終わらせず、この世で生きていくための必要なからだを供えていきました。男性の弟子と女性の弟子が、神が恵みとしてそれぞれに与えて下さった賜物を互いに生かし合い協力し合いながら、その実りを神に献げることを通してキリストの教会の旅路は今日に至るまで続いてきました。 

 

 キリストの教会は主イエスに愛され生かされている喜びと感謝を互いに持ち寄り分かち合って生きる主イエスの弟子たちの奉仕に支えられてこの地上での旅を続けています。  

 

 

 

2023(7/16) 礼拝説教片々

       「苦難の道」        

       ルカによる福音書9章51~62節 

  

 

 ガリラヤからエルサレムでの十字架の死を通って、神の国への旅を続けていかれる主イエスの旅の目的は、罪の支配の下にある神の子を神の支配の下に最後の一人まで救い出していくことです。その旅の途上で、主イエスはあらゆる罪人たちと出会っていかれます。そして、その度ごとに主イエスは救いの種を蒔いていかれます。主イエスが出会われたそれぞれの人たちの姿の中に私は自分自身の姿を見る思いがします。主イエスを拒絶してしまう自分。主イエスに従うと言っていながら、従い得ないことへの言い訳をする自分。主イエスに従いながらも人を裁こうとする自分。そして、何も言わず全てを主イエスに委ねていく自分。 

 

 たとえこの私が主イエスを拒絶するほどに遠く離れていってしまっている私であったとしても、その私のところにまで主イエスは来て下さいました。この恵みの事実に素直に心を開く時がこの私に訪れたなら、その時私が生きるこの命の中に新しい私になっていくための一歩を踏みだす力が芽生えてきています。私の命の中に蒔かれた主イエスの一粒の命の種が芽を出し、成長を始めています。私の命の鼓動と主イエスの命の鼓動が共鳴し合い一つとなる時、その時が来たら私は主イエスに救われて、主イエスの命と繋がり、神の国を目指して主イエスの後を追い求めて生きる主イエスの弟子の一人に加えられていきます。 

 

 

 

2023(7/9) 礼拝説教片々

       「生命の回復」        

       ルカによる福音書7章11~17節

  

 

 「もう泣かなくともよい」と救い主はこの女性に言われました。今、ここには、イエス・キリストを通して神の限りない憐みが注がれています。この時、彼女が救い主を信じているかどうか、ということは問題とされていません。それほどに、人間の貧しく小さな信仰など問題とならないほどに、神の憐みが全く自由に惜しみなく注がれています。神の圧倒的な恵みが現れています。救い主イエス・キリストが来られたというよき知らせ、福音が彼女を包んでいます。神の命の恵みが、今、ここに、溢れるばかりに現れています。

 棺に手を触れるという行為は自分自身が死に触れて汚れた者となるという意味を持つ行為です。しかし、主イエスは私たちの前に現れた神の子、救い主です。私たちの死の汚れを清め、死んだ者をよみがえらせる神の永遠の命の力に満ちている方です。死に触れた主イエスが死の汚れに染まっていくのではなく、反対に主イエスに触れられた死が主イエスの命の力によって清められていきました。死の持つ力が失われました。神の永遠の命の力が棺の中に満ちていきました。すると死者を弔う悲しみの行列はそこで止まりました。

 今や、ここにあるのはこの世の死の悲しみではありません。救い主イエス・キリストと共にやってきた天にある大きな喜びがここに現れています。聖書はこのよき知らせ、福音を私たちに告げています。

 

 

 

2023(7/2) 礼拝説教片々

       「救い主と共に生きる」        

       ルカによる福音書17章11~19節

  

 

 覚えておきたいことは主イエスの憐みを求めて遠くから声を張り上げて叫んだこの10人は皆癒されているという事実です。健康で元気に幸せに暮らしたいという願いは私たち皆の願いです。現世利益を求めて生きる私たちの願いは神によって聞き届けられています。その上で、主の憐みによって癒された10人の中から1人、主の救いに与っていった人の信仰の歩みはどんな歩みだったのでしょうか。現世利益を超えてなおも進んで行く信仰の道はどんな道なのでしょうか。

 10人のうち9人までの願いは自分の病が癒されて幸せな生活を送ることでした。主と共に生きることではありませんでした。主イエスから遠く離れた所に立ち、そこから主の憐みを求めそれでよしとする信仰でした。自分から主に近づいていく信仰ではありませんでした。しかし、この世での幸せな生活にもやがて終わりの時が訪れます。病は癒されても人の命には限りがあります。死が訪れます。その時が来たら、死を前にして人は自分の立っている場所に立ち止まり、諦めて生きるしか道はないのでしょうか。その時、自分から主に近づいて、主の足もとにひれ伏し、自分の全てを主の前に投げ出すことができた人は幸いです。その人に主は言われました。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と。救い主の御手に自分の全てを委ねる信仰がここにあります。 

 

 

 

2023(6/25) 礼拝説教片々

       「悔い改める喜び」        

       ルカによる福音書15章1~10節

  

 

 今、私たちは主イエスとの出会いを通して神の愛に触れ始めています。神は100匹の羊を愛しています。神は10枚のドラクメ銀貨を大切に持っています。見失ったら探し出します。天は見つけ出した喜びで満ちています。この天の喜びを伝えるために主イエスは、今、私たちと共におられます。この話をなさることを通して主イエスが伝えようとして下さっている神の愛はどんな愛でしょうか。神の愛は両方、どちらもです。どちらか一方ではありません。失われた1匹を探し出すということは99匹を見捨てたということではありません。無くしたドラクメ銀貨1枚を探し出すということは9枚のドラクメ銀貨と同様にその1枚が大切だからです。だから、今、主イエスがご自分のもとに近づいてきた徴税人や罪人を愛して喜んで迎えたということは、ファリサイ派の人々や律法学者たちを愛していないということではありません。これが神の愛だと主イエスは、今、教えて下さっています。

 今、私たちは神の愛の寛大さに触れています。では私たちの愛はどうでしょうか。神の愛の寛大さに触れた時、不愉快な気分にならないということは決して容易なことではありません。特にファリサイ派の人々や律法学者たちのように非常に真面目な思いをもって生きている場合には。だからこそ「一緒に喜んでください」と、神は求めておられると主イエスは教えて下さっています。

 

 

 

2023(6/18) 礼拝説教片々

      「主に繋がる人の群れ」      

       ルカによる福音書8章40~55節

  

 

 この地上にやって来られた主イエスが歩んで行かれる道は主の十字架の死と復活の永遠の命へと続く救いの道です。だから主の後について行くということは私たちが永遠に主に救われていく道を歩んで行くということです。それは受け身であると同時に私たちの主体的な生き方でもあります。この一筋の主の救いの道の途上のどの地点においても色々な人がそれぞれ自分の思いを心に秘めて主に近づいていきます。主イエスのうわさを聞いて自分の目で見ようと主に近づく人がいます。病の苦しみからの癒しを求めて主に近づく人がいます。死の現実を受け止めつつ、しかし、死が命の終わりではなく死の先に続いている復活の命に生きる希望の光を見出すために主に近づく人がいます。実に様々な人が救いの道である主イエスに連なっていきます。

 大切なことはこの救いの道を歩むことです。「わたしについて来なさい」と招く主に全てを委ねて主の後について行くことです。自ら歩み出すことによって、その時まで自分が見て聞いて慣れ親しんでいたこの世界が動き出します。歩み続けることを通して、見たことも聞いたこともなかった、信じられない驚くべき全く新しい光景が目の前に現れてきます。主イエスの後についていったヤイロは、主イエスの言葉を通して現れてくる主の救いの世界に導き入れられ、そこで驚くべき光景を目の当たりに見ました。

 

 

 

2023(6/11) 礼拝説教片々

      「神の国の宴会」      

       ルカによる福音書14章15~24節

  

 

  イエス様が言われます。「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」と。イエス様が言われる「わたしの食事」とは神様の食事です。そして、「あの招かれた人たち」は神様が遣わした僕の言葉に聴き従わなかった人たちです。そして、今、同じ時刻にイエス様の前で、イエス様によって病を癒された人を自分たちの食事に招かなかった、地位も名誉もある自信に満ちたこの立派な人たちです。この人たちはイエス様が癒した人を自分たちの食事の席に招きませんでした。

 さて、イエス様のこの話を聞いた後、この人たちは、今、この食事の席についている自分たちが、この同じ時刻に天で催されている神様の宴会の席についていないということに気が付いたでしょうか。イエス様が話された神様の僕とはイエス様ご自身のことだと気が付いたでしょうか。聖書はここで終わっています。それではこの人たちと一緒にイエス様の話を聞いた私たちはどうでしょうか。イエス様の話を聞くことを通して、いつも自分を中心にして他の人を思いやることなく、自分を他の人と区別しながら生きている自分の姿に少しでも目が開かれたなら、神様の愛を教えてくれたイエス様に感謝して、今、この同じ時刻に天で催されている神様の盛大な宴会に私たちを連れて行って下さるイエス様に喜んでついて行く人になりたいと思います。

 

 

 

2023(6/4) 礼拝説教片々

      「教会の使信」      

       ルカによる福音書10章17~24節

  

 

  「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」と喜んで報告した弟子たちに主イエスは「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない」と戒めました。悪霊は弟子たちに屈服しているのではありません。弟子たちを通して働いておられる聖霊の力に屈服しているのです。この時の弟子たちにはまだこのことが見えていません。

 私たちが主イエスの弟子とされていると信じて生きる喜びは、私たち自身が何か特別な才能や力を持っているということにはありません。そうではなく、天の父なる神が主イエスの故にこの私たちを受け止めて下さり受け入れて下さっていること、そして、私たちの名が天に書き記され神に覚えられていると信じる信仰に、日々生かされて生きているということにあります。主イエスに愛され主イエスの弟子とされていると信じて生きる喜びは、私たちが理解できるこの世のものを超えて、私たちが理解できないこの世のものではない神の愛に向かって私たち自身の心が開かれているということにあります。

 この喜びに生かされて生きる時、私たちは自分が限界を持ち負い目を感じながらしか生きることができない弱い存在であると自覚していながらも、それでも神に愛され生かされて生きているという驚くべき恵みに満たされ慰められます。その時私たちの自惚れは消え、感謝と賛美が心に満ちてきます。

 

 

 

先週(5/28) 礼拝説教片々

     「聖霊の賜物」     

       ルカによる福音書11章1~13節

  

 

 主イエスは弟子たちに言われました。「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と。主が弟子たちに教えた祈りは、一心に父なる神に頼み、願い、求め、叩き続けることでした。ただひたすらに求め続けることができるのは何故かと言えば、それは良いものを与えることがわかっている愛し合う親子の関係の中で生きている子が親に求めているからです。親の大きな愛の中で親を愛し親に信頼する子は「父よ」と真っすぐに呼び掛けます。一筋に天の父なる神の愛を求めて生きる神の子は、毎日求め続けて生きるということにおいて神の愛に毎日生かされています。毎日神の愛に育まれて神の子は成長し、神の愛の実りをこの地上に結んでいきます。「父よ」と呼びかけ天の父なる神の愛を一心に求めて生きる神の子に、神が毎日惜しみなく与えて下さっている命の糧は聖霊です。

 この聖霊が、主イエスを愛し毎日ひたすら主イエスを追い求めて生きる弟子たちの命に注ぎ込まれる恵みの時、聖霊降臨節が始まりました。聖霊の恵みは豊かです。尽きることはありません。聖霊は求める者に惜しみなく与えられます。主イエスに祈りを教えてもらうことを通して、弟子たちは自分たちが天の父なる神の愛する子たちとされているというあまりにも大きな聖霊の恵みを主イエスから知らされました。

 

 

 

2023(5/21) 礼拝説教片々

     「キリストの昇天」     

       マタイによる福音書28章16~20節

  

 

 ご自分の弟子たちを召命するために人の子となり湖畔にまで降りて来られた主イエスは、今、神の栄光に包まれた神の子、復活の命の主となって山の上に降りて来られています。今度は弟子たちが主イエスのおられるところに登っていく番です。山頂は天におられる神がご自分の民に御自身の栄光を現すために降りて来られる聖なる場所です。かつてモーセは山に登り神と会い神から律法を授かった後、下山して地上で待つ神の民に律法を伝えました。今、弟子たちは山に登り、神の子、主イエスを礼拝し、主の十字架の死と復活の命の言葉を授かりました。主イエスの前にひれ伏し礼拝をささげる弟子たち。この時、復活の主と出会っていながらも信じられず疑う者もいました。

 私たちが信じるということの陰にはいつも疑うということが隠れています。私たちが十字架の死と復活の命の救い主イエス・キリストを信じて生きるということは、私たちがそう信じる自分を信じているということではありません。そうではなく、信じたいと願いつつ信じられないそんな惨めな自分を救って下さっている主イエスに信頼しているということです。だから今、山の上に降りて来られている主イエスを礼拝している弟子たちは自分を信じているのではなく、天地を満たしている神の限りない憐みに触れ、ありのままの自分を委ね、その威力に生かされているのだと言えます。

 

 

 

2023(5/14) 礼拝説教片々

     「信仰に報いる主」     

       ルカによる福音書7章1~10節

  

 

 この百人隊長は主イエスに自分の家に来てもらえる程自分は価値のある者ではないということを自覚しています。自覚していながら、いや自覚しているからこそ、そんな自分が生きるために主イエスの救いを乞い求めずにはいられません。「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」と主イエスに言う言葉から百人隊長の信仰が見えてきます。それは深き淵より主イエスを我が救い主と仰ぎ見てひたすらに求め続ける信仰です。主の憐みを信じ求めずにはいられない程に自分自身の空しさを自覚していればこそ、そんな自分のところに、今、主イエスが来て下さっているという驚くべき恵みの前に畏れおののきつつ、ただひれ伏す信仰です。主イエスの言葉には力があると信じる信仰に生きている百人隊長は主イエスの言葉を乞い求めます。「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」と願いました。

 主イエスは天の父なる神の権威の下に置かれている神の愛する御子です。その方が言われる言葉に、天の父なる神の権威の下にある全ての被造物は従います。だから「ひと言おっしゃってください」と百人隊長は主イエスに求めました。主イエスは百人隊長の信仰にお応えになりました。これ程に己を空しくし、これ程に十字架の主を天の父なる神の栄光の座において仰ぎ見る信仰があるでしょうか。

 

 

 

2023(5/7) 礼拝説教片々

    「生きる力」     

       イザヤ書40章28~31節

  

 

 「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る」と、預言者イザヤの口を通して御自分の民に言われた主のこの言葉が今年度のひばりが丘教会の年間聖句です。

 主なる神を救い主と信じ受け入れて生きる者は、天地万物の創造主なる神と繋がって生きる者となるのですから、人間の力の限界を超えている主なる神の命の力を受ける者となります。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れよう」と主は言われます。自分の力に依り頼んで生きる者は自分の力の限界を迎えた時が自分の命の終わりの時となります。若者は自分の若さの限界を迎えた時、若者である自分の終わりの時を迎えます。勇士は自分の勇気の限界を迎えた時、勇士である自分の終わりの時を迎えます。しかし「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る」と主は御自分の民に言われます。主が共におられます。主に望みをおく主の民の生きる力は主にあります。自分の力の限界を迎えた時こそ、主の民には主の力が新たに宿ります。だから、走っても弱ることなく、歩いても疲れません。その生きる姿は、人里離れた所に住み、天に向かって力強く羽ばたく鷲にたとえられます。

 私たちは自分の力ではどうすることもできない課題と向き合いながら生きています。そして、主はそんな私たちといつも共にいてくださいます。私たちを慰め、励まし、新たに生きる力を私たちの限りある命に惜しみなく与えて下さいます。

 

 

 

2023(4/30) 礼拝説教片々

    「三日で建て直す神殿」   増尾隆司神学生  

       ヨハネによる福音書2章13~25節

  

 

 ヨハネ福音書ではこの宮清めの出来事がイエス様の公生涯の初めのほうにおかれていて、この出来事がイエス様の生涯をつらぬく象徴的な出来事とされています。

イエス様はこの宮清めで2つのことをなさいました。

ひとつは、文字通りエルサレムの神殿でお金儲けをしていた人達を、ここは祈りの場所だと怒って追い出されたこと。

もうひとつのことは、イエス様の死と復活がこの神殿の終わりであると示すこと。イエス様はご自分が十字架にかかり3日目に復活することにより、神礼拝が神殿によらなくなると言われたのです。イエス様の到来により信仰は全世界の民のものとなり、もはやエルサレム神殿は不要になったと宣言されたのです。

ユダヤ人はイエス様に「どんな奇跡をして見せるのか」と問うたとあります。奇跡を見せたら信じてやると言わんばかりです。しかし、私達はこのユダヤ人達を浅はかだと言えるのでしょうか?私達にも奇跡への拘りはないでしょうか?イエス様は「見なくとも信じるものになりなさい」と言われました。奇跡があったから信じるのは本来の福音とは異質だと言えます。

私達に纏わりつく罪の呪いから、イエス様への信従により解放され、日々安んじて生きて行けるようになった。たとえ目に見える奇跡が起らなくとも、この福音の有難さは何物にも代えがたく思います。

 

 

 

2023(4/23) 礼拝説教片々

    「弟子たちに現れる」 

       ルカによる福音書24章36~43節

  

 

 「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」と生きておられる主イエスが弟子たちに言いました。

 光ある所に闇は共に存在することができません。同じように永遠の命に生きておられる主と共に死んでいる主は存在しません。今、熱く燃える心の目が開かれた弟子たちに見えてきたのは永遠に生きておられる主イエスです。主と弟子たちの間には主の十字架の死があります。しかし、この主の十字架の死は弟子たちを主から切り離すものではありません。そうではなく、弟子たちを永遠に生きておられる主に繋ぐものです。罪深い自分たちを神の国へ導く主の贖いの十字架です。そして、今、この主の十字架を通って、死んでいかれた主が死に勝利された復活の主となって、今、再び弟子たちの前に現れました。復活され生きておられる主イエスの命にはこの地上を自分たちと共に生き死んでいかれた主イエスの命の全てが生きていました。たとえ死の力をもってしても、今、復活の主が結んで下さっている主と弟子との関係は崩れ去ることはありません。生きておられる主と生きている弟子たちの熱く燃える心の炎が一つにつながり、その光が復活の主から死の影を消していきました。

 

 

 

2023(4/16) 礼拝説教片々 

    「燃える心」 

       ルカによる福音書24章13~35節

  

 

 失望という暗い道を歩んでいる二人の弟子に、今、復活の主が近づいていきました。そしてこの二人の道連れとなりました。主から立ち去ろうとしている弟子の道連れとなった主は何をされようとしているのでしょうか。

 この二人の弟子の言い分を聞いた主は言いました。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と。主はこの二人の弟子の無知、無理解、不信仰を厳しく咎めました。今、あなたがたが言ったことがすべて事実であるなら、それこそが救い主の何よりのしるしではないか、と主御自身がこの二人の弟子に教えました。だから、今は失望に沈む時ではなく、復活の主の希望の灯が心の内に燃えてくる時であると復活の主御自身がこの二人の弟子に話し始めました。こうして、自分たちだけで不毛な議論をしていたこの二人の弟子はこの時からこの不思議な見知らぬ道連れが語る言葉を聞き始めました。自分たちと並んで歩くこの道連れが語る聖書の説明に耳を澄ませながら失望の旅路を歩んでいる道中、自分たちの聖書の御言葉に対する知識は次々と覆されていきました。

生ける主の言葉がこの二人の心に宿り始めています。失望していた心に希望の光が灯り始めました。そして、復活の主御自身が死に勝利している御自身の命であるパンを分け与えた時、すべてがこの二人の弟子の前に明らかにされました。

 

 

 

2023(4/9) イースター礼拝説教片々 

    「キリストの復活」 

       ルカによる福音書24章1~12節

  

 

 死と復活の主を信じる信仰は私たちがただ主イエスの言葉を聞いた、というだけでは生まれてきません。自分が聞いた主イエスの言葉が自分にとって真実であると確信させる何かを自分が経験することの中から生まれてきます。そして、この経験は神が備えて下さるものですから、自分にとっては思いもよらない経験となります。そして、この経験が自分に主イエスの言葉を思い出させます。この経験が自分にとってどんな意味があるのか、主イエスの言葉によってはっきりと確信する時が訪れます。その時から、主イエスの言葉が罪深い自分が生きる人生の旅路にその生きる意味を与え、生きる希望の灯となります。だから、今、彼女たちが経験したことが、復活の主を信じる信仰に生きる者にとって、どんなに驚くべき大いなる出来事であるか、ということがわかります。

 安息日の翌日の朝早く、新しい週が始まった夜明けの時、神が新しく始められた創造の業の現場に彼女たちは思いもよらず招き入れられました。その時、彼女たちが見たのは空の墓でした。途方に暮れる彼女たちの前に神の栄光に包まれている天使が現れ、恐れひれ伏す彼女たちに言いました。「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」と。主の言葉を思いだした彼女たちは主の言葉に導かれて墓を去り、主の復活を告げ知らせる幸いな者になりました。

 

 

 

2023(4/2)礼拝説教片々 

    「十字架への道」 

       ルカによる福音書23章32~43節

  

 

 今、ここには十字架の主イエスと共に死んでいこうとしているもう一人の罪人がいます。この罪人ははっきりと主イエスは自分たちとは違うということを認めています。自分たちは、今、自分たちが受けている罰に見合った者だと認めた上で、しかし、主イエスは無実なのに不当に罰を受けていると訴えています。この罪人は受難のメシアに対する神学的な深い洞察は欠けていたかもしれません。しかし、「この方は何も悪いことをしていない」と告白する素直な心において、この声は天の父なる神に聞き届けられています。そして、それは同時にこの十字架の主イエスが受難のメシアであるということを証ししています。そればかりではありません。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と、自分を全て十字架の主イエスに委ねています。

 神の前に正しい人は主イエスの他に誰もいません。そのただ一人正しい方である主イエスが神の御前で罪人の罪を自ら担って十字架にかかり死なれたのです。神は主イエスの行いを「よし」とされました。だから、十字架の主イエスの命につながり救われていくこの死にかけている罪人は、主イエスの正しさに心砕かれて悔い改め、主イエスに全てを委ねる信仰を通して罪が赦され、新しい復活の命の恵みに生かされて、今日、今、この時、生きている私たちの姿でもあると言えます。